Rhynie Chert-ライニーチャート-

それでもこの世界は美しい

理性の罠、情欲という罠、その2つが織りなす螺旋の罠

雌雄という生殖のための対になる区別がある以上、異性を好きになるというのは非常に自然なことである。

この世に生を受けてから20年以上経過してもその感覚を知らずに生きる人もいれば、恋愛体質的で、常に異性との交流が途切れない者もいるというのも事実である。

 

自分の人生に恋愛など全く必要ないと断言する者もいれば、常に異性とうまくいくことこそが人生の幸福であると言わんばかりに異性へのいわゆる受けというものへの執着に支配されている者もいる。

 

これは両極端に振り切った例であるが、大多数の人はその中間くらいの位置に恋愛を置いているのではないだろうか。

 

人を3つに分けた時、本能、理性、そして魂に分けることができる。

異性を意識した時、まず最初に本能が働くだろう。それは、我々の遺伝子に刻まれた子孫を繁栄させるために必要な能力のことだ。相手の遺伝子が欲しいという欲求は大なり小なり人は抱くものだ。そのステップとしてエンドルフィンが分泌し、異性の肉体に対して情欲を得る。これは正常な人間なら誰しも感じる自然なステップで、何ら悪いことではない。

次は理性の段階である。野生の生活であれば、本能の赴くままに求愛を示し、交尾に移行する段階となるが、その肉体からの反応に対して理性ある人間はさまざまな行動パターンが見られる。

好きという気持ちを伝た後のことを考え、もし玉砕してしまったらと、相手との関係の進展よりも、現状維持を優先してアプローチをすることができず、内に秘め続ける者、逆に相手と肉体的な関係に持ち込むためだけに、相手の気持ちを掌握しようと試みる者、外見を磨く者、相手からの求愛を待ち続けるもの、などさまざまなパターンがある。

 

恋愛のアプローチがうまくいかないことで自己肯定感が下がり、精神的に疲弊してしまう者も生まれてくる。こういうことを書いている私も例に漏れずその一人であった。

 

ここにすでに理性と肉体の拮抗が生まれ、対立し、分断が生まれることで人は苦しみを得てしまう。重要なのは、これらの分断反応は人間の反応として自然であると、まずは受容することが重要なのである。

理性をもったことによって人は、社会性を言語化し、更には自身への損得勘定という物も覚えた。それによって本能に赴くことで社会の秩序を乱す可能性があることは事前に制御できるようになった。

かといって、遺伝子による生殖本能も、人間が繁栄を続けていくことで無論重要である。

 

人間の恋愛とは非常に面白いもので、これほど理性と肉体が対立しやすくある状況が生じやすいのも他にはないだろう。

例えば誰かを好きになるとする。すると次はどうやってアプローチしようと考えたり、ちょっとしたことで自分が相手に嫌われてしまったのではないかと考えたり、他に恋人や好きな人がいたらどうしようなどと考えてしまったりするのだ。

それでうまく交際されたら、次は相手が浮気をしていないかとかそういう不安を人は抱きやすくなる。

これはまさに疲弊する恋愛だ。

理性の罠に嵌ってしまっている。

 

それから好きになった人が例えば既に結婚してしまっていたりした場合、理性ある人はその場で諦めるか、執着の強い人は相手のパートナーに激しい嫉妬を覚えたり、またあるものは不倫を続けたり、なんとかしてこの恋愛をうまくいかせようと、不倫を否定しない都合のいい占い師のもとに通い詰めたりする。

 

こういった一見対照的に見える2つの作用も、人間の持つ第3のパーツ、魂によって上手に制御でき、それによって恋愛的な苦しみも克服できると私は考えた。

 

ここで、これまでの肉体や精神つまりは理性への考察から一歩離れて考えてみることにする。人が生まれる前、つまり2次成長期に入る前の男女の子供は、相手の性別を特に意識することなく一緒に鬼ごっこをしたり遊んだりすることが多い。

それは生後からの時間が短ければ短いほど、互いの性別の違いをあまり意識しない。

その後獲得していく知識レベルや、社会性のレベルから離れ、こういった生まれてまもない頃の、文化や社会の制約を受けていない頃の状態を社会哲学者のJohn Rawlsは原初状態(original positon)と定義し、以下のように説明されている。

 

It is not enough -- indeed, it is irrelevant -- to say that the contract is historically inaccurate, or that the veil of ignorance is psychologically impossible, or that the original position is in some other way unrealistic. The question is not whether the original position could ever really exist, but whether the principles which would be chosen in it are likely to be fair, given the nature of the selection process.

Will Kymlicka, Contemporary Political Philosophy: An Introduction, Oxford: Oxford UP, 1990, p. 63.


内容としては、原初状態においては、 各人の個人情報(社会的階級、人種、性別、宗教、価値観) は無知のベール(veil of ignorance)の背後に隠されているため、 各人は自分の特定の状況について知ることができないと想定される。 (ただし、各人はまったく価値観をもたないわけではなく、 自由、機会、富、収入などの、 どういう生き方をするにしても望ましいもの[primary goods]は、 なるべくたくさん欲しがっているものとされる。 (彼はこれをthin theory of the goodと呼ぶ) これによって、 各人は特定の自己利益や価値観から解放され、 偏見のない公平な見地から正義について考えることができる。

 

この考え方で言うなら、まさに異性を意識するレベルに達するまでの子供というのは、veil of ignorance(無知のベール)という言葉によって説明され、そういった感覚から離れることだができる。つまり、恋愛によって生まれる苦しみは、精神レベルでも肉体レベルでも、成熟の過程で人間が獲得する後天的なものであると気づいてしまえば話は見えて来る。

そして私はその無知のベールにある頃の子供のような時の感覚、これを魂と呼ぶ。

日本語には3つごの魂百までという言葉があるが、3歳になるまで子供はどんな言語だろうと習得できるし、どんな文化にも適応でき、大人以上に聞き取れる音の可聴域も広く、嗅覚や視覚も鋭い。

成長の過程で徐々に失い忘れていくものがある。

 

もし人に生まれる前の姿があるとするならば、一般に人はこれを魂と呼ぶが、生後理性を獲得するまでの人はまさにその剥き出しの魂により近い状態であろう。

少し生々しい話をすれば、生後間もない男児が成人女性に欲情することもなければ射精の快楽を得ることもない。理性に関して言えば言わずもがなである。

ということは、魂により近い、または魂であるとは、異性の区別はないとも解釈できる。

 

理性と肉体の成長によって忘れてしまったその魂の感覚を取り戻すことができれば、一見相反する理性と肉体の乖離をコントロールすることができるだろう。

その段階まで来れば、これらは適宜使い分ければいいだけの道具であることに気づく。

 

魂の欲求を軸に置いた時、もしあなたが誰かを好きになったならば、まずは内側にその感情が理性によるものは本能よるものかをじっくり問うてみれば良いだろう。

好きだから相手のために何かしたい、とか、逆に好きだから近づかない、とか好きだから性的な交渉をしたい、とかという感覚はいずれにせよ正常である。

しかしもっとじっくりその感情を観察し、それらは生後の成長によって後天的に獲得した感覚から想起したものであると、その意識すら持つことができれば、その感覚に支配されることはなくなるだろう。

魂に性別などないのだから、まずは人として好きなってもらうことを考えれば良いわけである。とすれば自然に相手を支配しようという感覚や、逆に緊張しすぎて嫌われることを恐れて話しかけれないといった反応も起こらないであろう。人としての対話を続けていく中でもちろんそういう情欲が湧くこともあるかもしれない。

そこでお互いに情欲を感じあえるならば、自然とそういった行為にも入っていくだろうし、逆に行為後のトラブルというのもなくなるであろう。

 

逆に自分だけが好きで、相手はそうではないということもあるかもしれない。その場合は無理に好きになってもらおうとするのではなく、相手が自分を好きになるという「現象」が起こるのを待てば良いだけである。それでも好きになってくれない時は自分に問いかけ直して執着を捨てていけば良い。

 

また、逆に異性として関係を作るのはうまいが、付き合ってからうまくいかなかったり、長期的な関係を構築できない者も一定数いる。それで開き直っているのならまだしも、自分は人を好きになれないとネガティブになる者もいる。

それは単純に人よりも同じ異性に対して放出するエンドルフィンの分泌が終わるのが早いだけであり、むしろそれならそれで、恋愛感情がなくなってもなお、一緒にいて居心地が良かったり、人として尊重できれば、恋愛的な見方をすて、一人の人間としてしっかり見ることができれば長期的な関係も構築できるだろう。そこからいずれ結婚へ向かうかもしれない。

魂という視点で相手との関係を考えれているのか、それとも自分の情欲を満たすだけがその人との限界なのか、それは相手によって異なるであろうし、自分や相手の成長レベルによるだろう。

 

自分の感覚の中にある情欲と理性が、実は後天的に獲得したものであるという視点を持てれば、人は魂と対話を始めるだろう。

 

自分の本当の欲求が、理性や肉体の欲求と同一のものだと思い込んでいると、理性と肉体が拮抗を始めた時、人は「本当は自分はどうしたいのだろうか」と一つのジレンマに陥る。これはまさに内部での闘争である。

そしてそれこそが、理性と情欲の作り出す幻影であり、罠であったのだ。

だが誰しも一度や2度、こういった世界に入り込んでしまう。

だからこそ、そこの陥りそうになった時、それが幻影だということに気づいてほしい。

そして自分の奥深くを知る対話を始めれば良いのだ。