Rhynie Chert-ライニーチャート-

それでもこの世界は美しい

不完全であるからこそ美しい

今の日本の現代社会では、自分が完璧でなければならないという葛藤に苦しむ人は多い。これも完璧主義という幻想の作り出した罠だ。

 

僕がここで言いたい完璧とは、他者と比較することもそうである。僕は大変ありがたいことに、自分にないものをすごいと思えたり、尊敬することができるような素晴らしい価値観を持っている人たちに多く出会ってこれた。

それは本当にありがたいことで、そういう価値観がある人たちのおかげで異文化との共生やいわゆる多様性を持つ社会を形成できている事実がある。だがその現実にはほんの少しの悲しみも内包しているように感じた。それは、彼らの多くは無意識下で自分よりもすごいと思ってしまう人に対して敬意を通り越して自己への劣等感を持ってしまうということ。

 

謙遜と自己への過小評価を一緒くたにしてしまう人は多いように感じる。そういう現場に遭遇するたび、いつも勿体無いと思ってしまうのだ。謙虚な精神、相手を思いやる気持ち、これらは本当に素晴らしいことでそういう感覚がある人たちのおかげで今日我々はまともに生活することができている。しかしなぜか本来それとは別個のものであるはずの自己の過小評価が、「相手への謙遜=自己の過小評価」というように接続されてしまっているように感じる。だとしたら、さらに良い社会を目指すのであれば、それは誤解であると認知され、そういう人たちが自信を持って生きられる世界こそより素晴らしいものなのではないかと思う。

 

まず、自己への過小評価としての一番の理由として、今の日本では教育の背後に完璧主義が残っているように思ってしまう。完璧であることを強制されることは今日の社会では減りつつあるようには感じる。しかし、完璧であることを基準にして何かを推し量るという物差しとして、まだ[完璧]は倫理観の強い人々の間に蔓延っているように感じてしまうのだ。この記事ではこれを相対完璧主義と呼ぶことにする。

 

例えば、ある絵描きが自分より絵の上手な人を見て、素晴らしい作品だと思ったとする。とすると、次の瞬間自分の作品と比較して、まるで自分の作品の方が劣っていると感じてしまうような状況だ。そういう分析ができる人は、まず比較する対象を要素に分解して(例えば線や絵のタッチのどの部分が素晴らしいとか、どの色使いが全体にどういう影響を与えているかなど)、その分解したパーツごとで自分のと比較するということを行なっている。この思考ができる人はそもそもさらに上達する才能があるということだ。比較して、向上し取り入れるものは取り入れる。その行為自体は優れているのに、そこに、劣等感という感情が介入してしまうことが問題なのだ。

相手の方が自分より(パーツ分けしたどこどこの部分がなど部分的でも良い)[完璧]であり、だからこそそうでない自分を過小評価してしまうという状態。それが起こるのは、無意識下に[完璧の方が良い]という思想が長い教育、社会活動の結果として刷り込まれているからだと考える。これが、相対完璧主義的な状況であると考える。

 

これは日常の色々なところで観察される。アルバイト先でどんな、誰の仕事のやり方が良いかや、どんな身長や体型が理想的でどんなファッションの方が異性への受けがいいか、などあげればキリがない。

 

むしろこれからは完全であることよりも、不完全であることに目が向けられていく時代になると僕は思っている。ということで、今日の記事ではそれについて語っていこう。

 

完璧であることを、洗練されて何の無駄もなく、一切の間違いもないことだと定義すれば、それに最も近いのは機械計算であろう。機械計算なら最短のアルゴリズムで計算を行うというプログラムを組むことも可能だ。

17世紀の著名な数学者の一人、Leibnizは[思考]を[計算]に見立てた。論理的な思考を機械的な計算に転換し、その計算結果を思考にまた変換することで、思考する機械を作ろうとした。

 

「人は誰でも計算だけで、現に最も困難な真理すら判断することになるであろう。

以後、人々はすでに手中にしているものについて、もはや論争することなく、新たな発見に向かうことになろう」。--------『ライプニッツ著作集1論理学』

 

Leibnizの生きた時代から300年以上経過した現在でもこの夢は達成されていない。しかし、確実に時代はそれに向かっているように感じる。しかもそれはLeibnizの予想とは違った方向で。

Leibnizの時代には予期しえなかった量子計算の技術によって、彼の夢は達成されるかもしれない。しかしその話はこの記事のテーマにそぐわないので、また別の機会に語ることとしよう。

 

思考を計算に転換するというのは何らかの意味的世界を体系によってのみ定義づけられた形式的世界に転換することに似ている。例えば3種類の料理を1種類ずつ3人に配る時、皿の枚数は3×3=9と計算するが、これは一度数字の世界を形式(計算)の世界に転換してそれをまた意味の世界(ここで得られた9という数字は9枚分の皿という事実)に転換することで、我々は理解をする。

そしてこの究極系、つまり数学という学問体系そのものをさらに形式の世界に転換したのが20世紀の天才数学者、Kurt Gödelである。ゲーデルは数学を形式化することで、不完全性定理の発見・構築という凄まじい成果を挙げたのである。

 

ゲーデル不完全性定理について、以下にその概要を示す。

 

ゲーデルの第一不完全性定理 : ある条件を満たす形式体系には、以下の両方が成り立つ文Aが存在する。

  • その形式的体系には、Aの形式的証明は存在しない。
  • その形式的体系には、Aの否定の形式的証明は存在しない。

ゲーデルの第二不完全性定理 : ある条件を満たす形式的体系には、自己の無矛盾性を表現する文の形式的証明は存在しない。

 

ここでいうある条件とは、無矛盾でかつ自然数を扱えてかつ再帰的ということと考えていただきたい。数学自体が数学的帰納法による証明などが可能であるように、再帰的な学問であるから、これは数学という学問そのものへの無矛盾性の否定の証明であった。

ここで勘違いしてはいけないのが、決してこの定理は数学自体が不完全であることを証明したわけではないということだ。というよりむしろこのゲーデルの成果は、数学が持続可能性と無限の発展可能性を持つことを示したのだ。

というのは例えばXという形式的体系があるとしよう。Xの論理式a(論理式とは、形式的体系のパーツとなるものとイメージしていただきたい)を新たに公理として指定し、形式的体系Yを定義したとする。では公理が一個増えたからといって、XよりもYの方がたくさんの定理を持つことになると言えるだろうか。

否、aが元々Xの定理であれば(ここでいう定理とは、Xの形式的体系の構成物のみによって再帰的に導かれた事実ということ)aを新たな公理として加えても、新たな定理は生まれない。つまり、形式的体系XとYの定理全体の集合は一致する。もし仮に形式的体系をXよりも強くしたいのであれば、Xの形式的体系では証明できないことを公理に加えなければならない。

ではもし仮にそのやり方で新しく形式的体系Zを作ったとしよう。作ったとしてでは形式的体系Zの方がXより強いということをどうすれば証明できるのだろうか。そこで使うのがこのゲーデル不完全性定理である。

形式的体系は自分自身の無矛盾性を形式的に証明できない。これこそがゲーデルの第二不完全性定理であった。逆に言えば、もしZがXの無矛盾性を形式的に証明できれば、ZはXと同じ形式的体系ではない、つまりZの方がXよりも強くなっていることを証明できたことになる。逆に、ZとXが形式的体系として同じ強さのうちは、どちらもお互いの無矛盾性を証明できないということだ。

例えばこれば、ニュートン力学では説明できなかった、太陽を焦点とする楕円の公転軌道における水星の近日点の移動を一般相対論で説明できて初めて、ニュートン力学は99%の制度で正しかったことを説明できた状況に似ている。

つまり数学の世界でさえ、前の定理よりもさらに強くなることで初めて前の定理の正しさを証明できる、逆に強くなれなければ永遠にそれが正しいかどうかをいうことができないのだ。

ゲーデルの証明した不完全な世界。それは決して不完全であることを憂いなければならないような結果では決してなかった。むしろそうではなく、すべての体系はより強くなる性質を孕み、そして強くなって初めて前の状態より強くなったと証明することができるということを証明したのだ。

ということは、万物の理論がもし存在するなら、一見それはゲーデル不完全性定理に矛盾してしまうように感じる。だがもし、万物の理論そのものが、持続可能性を担保し続けるようなものであればそれはゲーデル不完全性定理も包含し、かつそれによって証明が可能であると言える。

 

この記事全体を通して最初の話とどうつながるか、疑問に思われることも多いかもしれない。ここまで僕の冗長な文章に付き合っていただけたことに感謝して、総括に入ろう。つまり、ゲーデル不完全性定理を完璧主義に当てはめるなら、人が完璧であろうとすることに意味はない。なぜなら、完璧などという状態は存在することができず、完璧になったとしてもそれを一人でに完璧だと証明できる体系は存在しない。ゲーデル流に言うなら、より完璧になって初めて人は前の状態の自分が完璧だったと言えることになる。しかしより完璧というのはおかしな日本語だ。完璧によりなどない。だったら最初からそれは完璧でなかったのだ。しかしそれでいいのだ。なぜなら、自分がその先に行けて初めてその前の状態を比較できるのだから。そしてさらに、どんなにいい状態でも、さらに良くなることができるということでもある。

どんなに今が悪い状態でもいい状態にうつれるということでもある。

今の自分の体系では証明できない論理式を新たに公理として自分に加えれば、自分の体系はさらに強くなれる。

その論理式を得ることこそが成長で、進歩だ。それは経験なのか、技術なのか、それとも人からもらう愛といったものなのか、それはわからない。なぜならそれはきっと、一人一人違うものだから。

 

だからこそ、完璧になろうとするのはやめよう。完璧になろうとするのではなく、今の自分よりほんの少し成長しようと思うだけでいいし、それをずっと続ければ、きっと気づいた頃には10年前の自分とは思いもかけないくらい変わっていたりするのだ。

すべでは小さなもの積み重ね。

でもそのためには、あなた自身が今自分の武器を知ること、つまり自分という形式的体系が何を成せるのか、知ることが大切だ。

そのためには自己への過小評価など必要ない。あなたの持つ最高の武器を磨き続けてくれ。そうして大きな花は咲く。

 

不完全であるからこそ美しい。

なぜならそれは成長と進歩の可能性を秘めているのだから。