Rhynie Chert-ライニーチャート-

それでもこの世界は美しい

誰もがみな、意味もわからず生きているから

自分は何のために生まれてきたのだろう。

そうはっきり考えたのは小学一年生くらいの時だったと思う。

 

あの時の僕には何もなかった。

未来も夢もなかった。何になりたいとか何がしたいとかもなかった。

同じクラスメイトの子たちには、サッカーが得意な子、バスケが得意な子など、そういう才能に恵まれた子たちがその当時から頭角を表し始めていた。

でも自分には何ができるんだろう。それがわからなかった。

自分にできないことができている子たちを羨ましいとも思った。

 

その頃、世田谷一家殺人事件の特集をテレビで見た。それまでの僕はいろんなものに守られながら生きていて、自分が死ぬなんてことを考えたこともなかった。だけどその生々しい事件の全貌を流すテレビの映像は当時の僕には恐ろしく、そこから3ヶ月ほど、恐怖で眠れない日が続いた。その映像がきっかけで、夜中誰かが侵入して自分の命を奪いにくる、本気でそんな気がしてまともに眠ることなんてできなかった。

夜の8時には布団に入れと言われていた。そして布団に入るが全く眠れない。永遠にあるかのような時間の中で、布団の中考え事をして何とか寝れたと思って目が覚めた時は、まだ空が暗い。朝の3時や4時にはいつも目が覚めていた。

 

朝になれば気分は穏やかだった。クラスメイトたちに会えば、不思議とその怖さもなかった。だがまた家に帰れば世にも恐ろしい感覚と不安が永遠に自分を苦しめた。

自分が殺されるかもしれない。本気でそう思っていた。今思え返せば大袈裟な子供であったと思う。しかしそれが確実に、死ぬことが怖いことだと自分に知らしめたのだ。

死んだら何も残らないと、そう心から思った。

 

そして小学五年生になった時、自分にとって拠り所だと思っていた学校が一気に苦しい場所に変わる。純粋だった子供たちは負の感情を覚え、人を平気で傷つけ冒涜するようになった。そんな中でも僕は自分の正義を貫きたかった。彼らに合わせて、気を遣って何かをするのがとても嫌だった。すると彼らは僕を標的にし始めクラス全体でのいじめが始まった。当時の僕は学習塾に通わせてもらっていたことや、学校の先生によく褒められてしまっていたことがきっかけでクラスメイトたちからの嫉妬や反感を買ってしまい、よく彼らは僕を排斥の標的にした。

その頃からだったと思う。人とは何か考え始めたのは。学校の先生や両親から何らかの期待をかけられそれに応えようとしている自分、そしてそんな自分を見て嫌がらせをするクラスメイト、人と人の感情の隙間の中で、なぜ人が同じ人同士を攻撃し合うのか理解ができなかった。

 

遺伝子には種の生存のための本能が仕組まれている。だとしたら、同種同士で争い合って何になるというのか?だが社会を見渡せばあらゆる場所に競争という仕組みがプログラムされ、人と人が互いの差異に優劣をつけて階層を作ることを是とする社会構造が何世紀も前から構築されてしまっている。当時小学生だった僕は、小さな学校という社会から人間の負の部分に直面し、いつも寝る前にこのままいっそ自分が目覚めなければ良いのにと思いながら床についていた。

 

小学六年になると、クラスメイトにも恵まれ、行きたい中学にも合格でき、充実した一年を過ごせたと思う。しかし今度は中学に入ると僕はいじめや嫌がらせの対象になった。世間知らずな、裕福な家に生まれて甘やかされただけの彼らはしっかりと道徳教育を受けていないのではないかと疑わざるを得ないほど倫理観の欠如した人たちの集まりだった。そして担任の先生は「今ここで勉強をサボった人間は社会の底辺で働かなければならない。それか名の知れてない大学を卒業し無能な人間になりたくなければ、良い大学を目指して勉強をしろ」というとんでもない選民思想を持った危険な教師であった。

だが当時の僕はそれが最善の道だと錯覚していた。働いたことがない中学一年の自分にとって社会で働くことはブラックボックスであった。だから影響力の強い教師にそう言われた時、僕は逆らうことができなかった。服従する道を選んだ。

そして成績が上がれば上がるほど、余計にクラスメイトの嫉妬を受け、いじめは過激になっていった。クラスメイトの四人が殴る蹴るというリンチ状態、そしてそれを見て集まるギャラリー達。集まってきた見物人達は面白そうにこちらを覗くだけで、もちろん誰も助けてはくれない。それでも、学校に行くことをやめれば勉強についていけなくなって良い大学にいけなくなってしまうという強い思い込みが、僕を学校に通わせ続けた。今でも覚えている。朝8時半に校門の近くに来た時、「もうここから先には行きたくない」という強い思いが湧き上がってくる。それでも僕は振り切って学校に行かなければならなかった、高い私立の学費を両親にも出してもらっていた。もちろん両親は僕の学校でのそんな状況は知らない。本当に孤独だった。地獄のような日々だった。生きているのに、生きている実感がなかった。

 

僕の通っていた中学は中高一貫校で二年から成績別にクラス分けが行われた。厳しい状況の中でも勉強を続けて成績を上げ続けていたことが、皮肉にも僕を救うことになり、その制度に救われて嫌がらせをしていた彼らとは離れることができた。

だがそれも束の間、運命は僕を試そうとどんどん試練を与えてくる。今度は担任の先生がクラスの連帯責任なる謎の感覚を持っている方々で、それまで個人ゲームだった僕の学校生活に、クラスの平均点が悪いと全員が怒られるといったような今までにはない共産的な考えが導入されたクラスに配属になってしまった。

それがとにかく合わなかった。僕のクラスは問題児が多かったので、毎日のように担任がホームルームで機嫌を悪くし怒鳴るといった状況で、ただただ気分が悪かったのである。科目担任の先生も変な先生ばかりで授業を通して否定的な言葉やネガティブな思想を押し付けてくる人たちの割合が大きかった。

 

「何なんだこの学校は」

僕のフラストレーションは限界にまで来ていた。中学三年に上がった時、母に告げた。「母さん、俺高校には進学しない」。それを聞いた母は狂ったように僕を叱りつけてきた。息子が真面目に考えて出した結論に、向き合おうともせず、じっくり僕の心情やその結論を出した理由を聞くこともなく、頭ごなしに高校に進学することを強制してきたのだ。だが、僕はこれ以上この学校での生活に未来を感じていなかったのだ。高校のカリキュラムでは僕のやりたい物理学はできないことも判明した。

それでも母は僕を高校に強制的に進学させた。それでも最初は黙って通い続けた。しかし僕はもう我慢の限界だった。中学一年の時から、降りかかってくるさまざまな試練を乗り越え続け、理不尽に耐え、大人達にとって都合の良い子供でいる、それをこの後僕は何年続ければ良いんだ?このまま一生か?自分の意志のない人生を送り続けるのか?

僕は毎日のように自分に問い続けた。そしてその結果、高1の冬休み、高校に通うことをやめたのだ。

毎日のように母親との大喧嘩だった。お互いに一歩も譲らない。その時が初めて母に激しく反抗した時だったのかも知れない。今思い返せば、自分という存在が自立するために必要な過程であったのかも知れない。何とか母は折れ、高校一年修了時点でついに正式に退学をした。形としては単位取得退学であったが、それ以降、その単位を使うことはなかった。

 

自分を縛り付けるもの、そしてその理不尽に耐え続ける長い我慢、これは今の僕にとって最も許せないものの一つであり、いまだに何の根拠もなく重圧をかけられると僕は激昂し反発する。小学五年生の夏休みから高校一年までの約5年半、僕は我慢と戦い続けていた。世の中にはもっと多くの我慢を強いられている人はいるかも知れない、だがそれでも僕にとってこの5年半は耐え難い屈辱的なものであった。そしてその理不尽を僕に与え続けた反面教師達をベースに、今の僕のあるべき教師像というのはできているのだろうと思う。

 

長い間の抑圧から解放された僕はまた一つの壁にぶつかった。それは、「本当に自分がしたいことは何か」それがわからないということだ。その後すぐに家出をして放浪の旅に出る。そしてあの名古屋や東京の記事に繋がるのだ。

今まで誰かに与えられたものをこなしていただけの自分にとって自分で何か道を作るということは本当に大変なことであった。多くの人が何も考えずひかれた上のレールを歩くだけで結局やりたいことがわからず途方にくれ、そのまま大学を卒業してやりたくもない仕事をする。抑圧された学生時代を送って大学生や社会人になってから派手な遊びにハマって身も心も壊したりする人もいる。

今の僕にとって、物理学をやるということが一つの目的であることは言うまでもない。

しかしそこに気づくまで多くの遠回りをしたことも事実であった。

 

さて、長々と話をしてきたが結論に入ろう。人は皆、生まれた時から自分が何者であるかなんて知らないし知りようがない。何か人に役割を与えられて生きているということがほとんどだ。かといって他者に与えられたその役割に多かれ少なかれ不満を感じながら生きている。だからある日無秩序な何もない世界に放り込まれると、途端にどうして良いかなんてわからなくなる。いろんな人生の節目節目で自分はなぜ生きているのか?そんなことを考える瞬間が出てくるのは自然なことだし、そもそも死の直前になっても自分が生まれた意味を知ることはないのであろう。

言い換えれば、永遠に答えのない世界で生きるということだ。

しかし、人生全般に言えることだが、正解や答えというのは存在しないことの方が多い。物理学の世界でも、考察の対象を理想的な対称性のある世界ではなく、現実のこの世界を対象にした瞬間に解が定まらないカオスな状態に入ってしまう。

 

答えの無い世界で生きるためには、自分が生きる理由を見出さなくては生きていくことはできないのかも知れない。何かをする、作る、誰かを愛する、何でもいい。

ほんの些細な理由でいいから、自分が生きる理由ではなく、「今自分が死んではいけない理由」これを見出せたらきっと人生は豊かなものになるのかも知れない。

それが到底できないというのであれば、何も考えず流れに身を任せて生に身を預けてみるだけでも何かが変わってくるのかも知れない。

ただそれでも僕は、自分の意志の全く関与できないロボットのような生活を送ることには激しく抵抗したい。そういう意味で、僕の人生のテーマは逆らうことなのかも知れない。

僕にとって「死んではいけない理由」それは「理不尽に逆らい続けなければならないから」と結論づけられるかも知れない。

そしていつか僕のそんな姿勢が、誰かの目に留まって広がり続け、それが世界を変えるまで。

蝶の羽ばたきはハリケーンを引き起こすか

先日のことであった。僕がアルバイトしているミスタードーナツでの店長とキッチンのおばちゃんの会話が耳に入った。

「なんで天気予報ってこんなに当たらないのかしら。湿度や気温で作る量を調整しなきゃいけないのに、本部の気象予報が当てにならなくて困るわね」

「この本部の天気予報は当たらないことで有名なんですよ。」

 

何気ない職場でのありふれていそうなそんなやりとりの中に、僕は天気予報が当たりにくいことについて考えるヒントを得た。というのは、ミスタードーナツの天気予報もきっと気象庁のデータをそのままひっぱっているに過ぎないと考えれば、これは今の人類の計算の限界とも言い換えることができると。我々人類はまだ1週間先の天気ですら、1週間前の時点で正確に予測することはできない。

 

まずは天気予報の仕組みについて考えてみよう。現在の気象予報は「数値予報モデル」というものが採用されている。これは何かというと、コンピューターを用いて地球大気や海洋・陸地の状態の変化を数値シミュレーションによって予測するものである。具体的には、最初に地球大気や海洋・陸地を細かい格子に分割し、世界から送られてくる観測データに基づき、それぞれの格子にある時刻の気温・風などの気象要素や海面水温・地面温度などの値を割り当てる。この割り当てられた値こそが、古典物理学における初期条件というものだ。この初期条件を古典的熱力学や流体力学の方程式に当てはめてシュミレーションを行うのである。たとえば日本にあるアメダスは代表的な地域気象観測システムであり、日本国内に約1300箇所の気象観測所が存在する。

 

しかし、天気予報が必ず当たらない理由がここにあるのだ。というのは、初期条件を割り当てるということがそもそも問題なのだ。気象の変化が起こるときの最初の気温、圧力、風速こういったものは全て初期条件だ。しかしこれら初期条件を厳密な正確さで求めることは不可能だ。今の気象シュミレーションは精度の高い予測こそできるものの、それを完全に知ることはできない。そしてその初期条件のわずかなずれは、大きな時間の中で見れば、到達する場所はとてつもなく大きな誤差になり(誤差が指数関数的に増大する)、何の規則性もない解析不能なものになってしまう。こういった状態のことをカオス系と呼ぶ。たとえば代表的なカオス系の2重振り子のシミュレーションは以下だ。

 

ja.wikipedia.org

 

規則正しい単振動の形は失われ、運動の一つ一つを解析することは困難である。

また、カオス系についてより詳しい説明を求める方は以下のブログを参考にされたい。

note.com

 

つまり結論として、天気予報が当たらない理由は以下だ。

天気予報の計算システムは、古典的物理学の計算式に基づいて計算されているが、この古典的物理学というのが、初期条件が少し違っただけでその先の誤差がとんでもない大きさに膨らんで、予測が全く不可能になってしまうような形式的体系でり、そしてそもそも我々人類はその初期条件を完璧に知る事はできないので、地球上のあらゆる観測所の観測データをもとに割り当てられた近似的な初期条件を使用しているので、絶対にこの古典的システムを採用し続ける限り我々人類は正確に天気を知れるようにはならない。

 

僕の大学で授業を担当してくださっている坂本氏は自身のブログの中で以下のように述べられている。

ある現象がフラクタルである(*注)と言ったとき、それは何か進歩したことを意味するのであろうか?上の状況であれば、フラクタル構造とは無限に入り組んだランダムな構造が存在する事を意味している。人間が数学的手段で現象を理解したいと思うとき、最終的には巨大な計算機で近似的に調べていく以外の方法は無いと思われる。ところが現在の問題は無限に複雑な構造を持っているのであるから(つまりちゃんと記述しようとすると無限桁の数値を扱う事が必要となるが、メモリは決して無限大にはできないので入れられない)、どのような技術革新が起こったとしても人間には完全な理解をすることは不可能であるこれは原理的な障害であるから、将来誰かが解決するという事はありえない(予め書いておくとAIや量子コンピュータでは解決しません)。ある現象がフラクタルであると称するとき、実際にはこれ以上人間が立ち入れない領域であると宣言しているのに等しい。

(*注:フラクタルとは、カオス系において値の精度をどれだけ小さく取っても、その小さくした測定精度の中で同じ構造が出てきて、永遠に同じ構造が出続けて終わりのない構造のこと、つまり解析不可能であるような構造)

だがこれは大きな誤りを含む。なぜなら量子コンピュータの演算が古典計算のシステムを採用していないのに対して、カオス系やフラクタル構造は古典的原理計算(初期条件の敏感性が大きすぎる決定論的世界)によって発生してしまうエラーであるからだ。

 

このカオス系によって天気予報はどう説明されるかというと、MITの気象学者Edward Norton Lorenzは古典物理学の体系からローレンツ方程式というのを考えついた。

ローレンツ博士は複雑な大気の解析において、プラントル数とレイリー数をまず導入した。プラントル数とは熱伝導に関する物性値であり、流体の動粘度と温度拡散率の比によって無次元化された数である。レイリー数は伝熱に関係する数で、このレイリー数がある閾値以下では熱は主に熱伝導によって伝達され、それ以上は主に対流によって伝達される。

これらの値を比例定数として位置と速度の関係を線形的にかくと、その時の解は動きの迷走性が非常に高く、初期条件のわずかな違いで結果が鋭敏に変わることを発見した。
これが、バタフライ効果である。これらの定数がある値(レイリー数が28の時)を取った時、方程式は以下のような軌道を描く。まるで蝶のように美しい形であるが、プロットされた点が右と左を交互に動き、これもカオス系に入ってしまう。

 

ja.wikipedia.org

また、別の時の値(レイリー数が20の時)をmathematicaで描いたのが以下である。

 



ご覧いただければお分かりになるように、あまりにも最初の初期条件によってその軌道が大きく変わりすぎてしまうのである。

これらの計算結果からローレンツ博士は、まるで蝶の羽ばたきほどのほんのわずかな変化さえ大きく歪に結果を歪めることになる、つまり蝶の羽ばたきほどの小さな変化でもハリケーンを引き起こしうるかのようだと考え、これがのちにバタフライ効果と呼ばれた。

Lorenz博士によって、我々人類はまず、初期値のほんのわずかな変化から全てが変わってしまうので天気予報は外れやすいことが理解できた。

しかしよく考えてみると、カオス系というのは古典物理学における予測可能性の限界を示唆し、ほとんど全ての古典的システムは本来的に(簡単に初期値の違いで解析不可能になるため)不安定である」ということ、つまり初期値に対する極端な敏感性がそもそも内包されている形式体系であるということが、上記の計算結果や、2重振り子の振動から確認することができる。

ということはもし初期の位置と運動量を完全に知ることができれば、数値計算を用いて完全な運動を本当に予測することができるのか?という哲学的問題に直面する。しかしこれはハイゼンベルグ不確定性原理(物体の位置と運動量を同時に知ることはできないという量子力学の原理)に抵触するためそれを知ることはできない。
ということは、古典的体系のみでは我々人類は未来を知ることを諦めなければならないことになってしまう。しかし本当にそれを受け入れて良いのか?それを受け入れることは、サイエンスがそれより先の未来を完全に閉ざすことになってしまうのではないかと私は少し悲しくなってしまった。
ここである一つの考察をしたい。確かに古典的物理体系での未来予測は不可能であった、そしてその理由は、初期条件を完全に知ることが不可能で、たとえわずかな誤差で近似の初期条件を出せても、そのわずかな誤差は指数関数的に増大してしまい、結局カオス系に突入してしまう。ならばここで、古典的物理体系とは全く異なる量子力学的体系をここで導入してみればどうなるのかと。

量子力学における波動関数の解釈を「ある与えられた位置にあった対象が、多宇宙的な意味で広がる」ことを意味するものとする。例えば、光子は輝いているフィラメントの同一の点から出発するが、その光子一粒一粒は無数の異なる方向に動いていく。この光子ひとつひとつを一つの宇宙と考えれば、一つの宇宙のある任意の時空の点から無限に宇宙は分岐する。しかし光子ひとつ一つの挙動はシュテルンゲルラッハの実験で示されたように、任意のブラケットの記号を使ってその挙動を確率の線型結合として表せられる。これを気象におけるハリケーンで考えるならば、ハリケーンが30%の宇宙で起こり、残りの70%では起こらないとかいうことができるのではないか。
もしこの仮定を正しいとするならば、多宇宙論的には全ての結果は(つまり、ハリケーンが発生することもしないことも)現実に起きるにも関わらず、古典的体系的には、単一の予測不可能な、すなわちランダムな結果と知覚する。
つまり、カオス系の真の原因は、初期値を完全に把握できないことではなくて並行宇宙の多重性によるものなのではないかと。
どういうことか?つまりもし仮に初期値を完全に把握できたとしよう。しかしそれは光子で言うならば1粒の光子が運動を始めた位置と運動量を正確に知れただけで、この初期状態から同時に出た全ての光子の軌道を計算することはできない。つまり、初期値を知れても波動関数の多重性、ひいては運動の予測不可能性は残る。
つまり、蝶の羽ばたきは現実にはハリケーンを引き起こさない。カオスという系は古典論における完全な決定論の世界に依存している。しかしこの決定論はどの単一の宇宙でも成り立っていない。
古典論においては、結果に対して原因が必ず対応するので、原因を100%の精度で知ればその結果も必ず導けるというようなものである。しかし量子論の世界は、因果の世界ではない。たとえ実験の中間段階で宇宙は互いに異なっていても全ての宇宙が同じ結果で終わると予測し結末が何であるかを予測するからである。
つまり量子系ではカオス系は発生しない、しかし現状の人類の計算資源では膨大な量子系を処理しきる技術はない、しかしこれは計算不能な世界ではないかもしれない。いずれ量子コンピュータが実用化された時、その世界ではもうカオス系は歴史の授業にしか出てこない概念になっているかもしれないと思うと、人類はまだ未来を予測することを諦めきることはできない。

不完全であるからこそ美しい

今の日本の現代社会では、自分が完璧でなければならないという葛藤に苦しむ人は多い。これも完璧主義という幻想の作り出した罠だ。

 

僕がここで言いたい完璧とは、他者と比較することもそうである。僕は大変ありがたいことに、自分にないものをすごいと思えたり、尊敬することができるような素晴らしい価値観を持っている人たちに多く出会ってこれた。

それは本当にありがたいことで、そういう価値観がある人たちのおかげで異文化との共生やいわゆる多様性を持つ社会を形成できている事実がある。だがその現実にはほんの少しの悲しみも内包しているように感じた。それは、彼らの多くは無意識下で自分よりもすごいと思ってしまう人に対して敬意を通り越して自己への劣等感を持ってしまうということ。

 

謙遜と自己への過小評価を一緒くたにしてしまう人は多いように感じる。そういう現場に遭遇するたび、いつも勿体無いと思ってしまうのだ。謙虚な精神、相手を思いやる気持ち、これらは本当に素晴らしいことでそういう感覚がある人たちのおかげで今日我々はまともに生活することができている。しかしなぜか本来それとは別個のものであるはずの自己の過小評価が、「相手への謙遜=自己の過小評価」というように接続されてしまっているように感じる。だとしたら、さらに良い社会を目指すのであれば、それは誤解であると認知され、そういう人たちが自信を持って生きられる世界こそより素晴らしいものなのではないかと思う。

 

まず、自己への過小評価としての一番の理由として、今の日本では教育の背後に完璧主義が残っているように思ってしまう。完璧であることを強制されることは今日の社会では減りつつあるようには感じる。しかし、完璧であることを基準にして何かを推し量るという物差しとして、まだ[完璧]は倫理観の強い人々の間に蔓延っているように感じてしまうのだ。この記事ではこれを相対完璧主義と呼ぶことにする。

 

例えば、ある絵描きが自分より絵の上手な人を見て、素晴らしい作品だと思ったとする。とすると、次の瞬間自分の作品と比較して、まるで自分の作品の方が劣っていると感じてしまうような状況だ。そういう分析ができる人は、まず比較する対象を要素に分解して(例えば線や絵のタッチのどの部分が素晴らしいとか、どの色使いが全体にどういう影響を与えているかなど)、その分解したパーツごとで自分のと比較するということを行なっている。この思考ができる人はそもそもさらに上達する才能があるということだ。比較して、向上し取り入れるものは取り入れる。その行為自体は優れているのに、そこに、劣等感という感情が介入してしまうことが問題なのだ。

相手の方が自分より(パーツ分けしたどこどこの部分がなど部分的でも良い)[完璧]であり、だからこそそうでない自分を過小評価してしまうという状態。それが起こるのは、無意識下に[完璧の方が良い]という思想が長い教育、社会活動の結果として刷り込まれているからだと考える。これが、相対完璧主義的な状況であると考える。

 

これは日常の色々なところで観察される。アルバイト先でどんな、誰の仕事のやり方が良いかや、どんな身長や体型が理想的でどんなファッションの方が異性への受けがいいか、などあげればキリがない。

 

むしろこれからは完全であることよりも、不完全であることに目が向けられていく時代になると僕は思っている。ということで、今日の記事ではそれについて語っていこう。

 

完璧であることを、洗練されて何の無駄もなく、一切の間違いもないことだと定義すれば、それに最も近いのは機械計算であろう。機械計算なら最短のアルゴリズムで計算を行うというプログラムを組むことも可能だ。

17世紀の著名な数学者の一人、Leibnizは[思考]を[計算]に見立てた。論理的な思考を機械的な計算に転換し、その計算結果を思考にまた変換することで、思考する機械を作ろうとした。

 

「人は誰でも計算だけで、現に最も困難な真理すら判断することになるであろう。

以後、人々はすでに手中にしているものについて、もはや論争することなく、新たな発見に向かうことになろう」。--------『ライプニッツ著作集1論理学』

 

Leibnizの生きた時代から300年以上経過した現在でもこの夢は達成されていない。しかし、確実に時代はそれに向かっているように感じる。しかもそれはLeibnizの予想とは違った方向で。

Leibnizの時代には予期しえなかった量子計算の技術によって、彼の夢は達成されるかもしれない。しかしその話はこの記事のテーマにそぐわないので、また別の機会に語ることとしよう。

 

思考を計算に転換するというのは何らかの意味的世界を体系によってのみ定義づけられた形式的世界に転換することに似ている。例えば3種類の料理を1種類ずつ3人に配る時、皿の枚数は3×3=9と計算するが、これは一度数字の世界を形式(計算)の世界に転換してそれをまた意味の世界(ここで得られた9という数字は9枚分の皿という事実)に転換することで、我々は理解をする。

そしてこの究極系、つまり数学という学問体系そのものをさらに形式の世界に転換したのが20世紀の天才数学者、Kurt Gödelである。ゲーデルは数学を形式化することで、不完全性定理の発見・構築という凄まじい成果を挙げたのである。

 

ゲーデル不完全性定理について、以下にその概要を示す。

 

ゲーデルの第一不完全性定理 : ある条件を満たす形式体系には、以下の両方が成り立つ文Aが存在する。

  • その形式的体系には、Aの形式的証明は存在しない。
  • その形式的体系には、Aの否定の形式的証明は存在しない。

ゲーデルの第二不完全性定理 : ある条件を満たす形式的体系には、自己の無矛盾性を表現する文の形式的証明は存在しない。

 

ここでいうある条件とは、無矛盾でかつ自然数を扱えてかつ再帰的ということと考えていただきたい。数学自体が数学的帰納法による証明などが可能であるように、再帰的な学問であるから、これは数学という学問そのものへの無矛盾性の否定の証明であった。

ここで勘違いしてはいけないのが、決してこの定理は数学自体が不完全であることを証明したわけではないということだ。というよりむしろこのゲーデルの成果は、数学が持続可能性と無限の発展可能性を持つことを示したのだ。

というのは例えばXという形式的体系があるとしよう。Xの論理式a(論理式とは、形式的体系のパーツとなるものとイメージしていただきたい)を新たに公理として指定し、形式的体系Yを定義したとする。では公理が一個増えたからといって、XよりもYの方がたくさんの定理を持つことになると言えるだろうか。

否、aが元々Xの定理であれば(ここでいう定理とは、Xの形式的体系の構成物のみによって再帰的に導かれた事実ということ)aを新たな公理として加えても、新たな定理は生まれない。つまり、形式的体系XとYの定理全体の集合は一致する。もし仮に形式的体系をXよりも強くしたいのであれば、Xの形式的体系では証明できないことを公理に加えなければならない。

ではもし仮にそのやり方で新しく形式的体系Zを作ったとしよう。作ったとしてでは形式的体系Zの方がXより強いということをどうすれば証明できるのだろうか。そこで使うのがこのゲーデル不完全性定理である。

形式的体系は自分自身の無矛盾性を形式的に証明できない。これこそがゲーデルの第二不完全性定理であった。逆に言えば、もしZがXの無矛盾性を形式的に証明できれば、ZはXと同じ形式的体系ではない、つまりZの方がXよりも強くなっていることを証明できたことになる。逆に、ZとXが形式的体系として同じ強さのうちは、どちらもお互いの無矛盾性を証明できないということだ。

例えばこれば、ニュートン力学では説明できなかった、太陽を焦点とする楕円の公転軌道における水星の近日点の移動を一般相対論で説明できて初めて、ニュートン力学は99%の制度で正しかったことを説明できた状況に似ている。

つまり数学の世界でさえ、前の定理よりもさらに強くなることで初めて前の定理の正しさを証明できる、逆に強くなれなければ永遠にそれが正しいかどうかをいうことができないのだ。

ゲーデルの証明した不完全な世界。それは決して不完全であることを憂いなければならないような結果では決してなかった。むしろそうではなく、すべての体系はより強くなる性質を孕み、そして強くなって初めて前の状態より強くなったと証明することができるということを証明したのだ。

ということは、万物の理論がもし存在するなら、一見それはゲーデル不完全性定理に矛盾してしまうように感じる。だがもし、万物の理論そのものが、持続可能性を担保し続けるようなものであればそれはゲーデル不完全性定理も包含し、かつそれによって証明が可能であると言える。

 

この記事全体を通して最初の話とどうつながるか、疑問に思われることも多いかもしれない。ここまで僕の冗長な文章に付き合っていただけたことに感謝して、総括に入ろう。つまり、ゲーデル不完全性定理を完璧主義に当てはめるなら、人が完璧であろうとすることに意味はない。なぜなら、完璧などという状態は存在することができず、完璧になったとしてもそれを一人でに完璧だと証明できる体系は存在しない。ゲーデル流に言うなら、より完璧になって初めて人は前の状態の自分が完璧だったと言えることになる。しかしより完璧というのはおかしな日本語だ。完璧によりなどない。だったら最初からそれは完璧でなかったのだ。しかしそれでいいのだ。なぜなら、自分がその先に行けて初めてその前の状態を比較できるのだから。そしてさらに、どんなにいい状態でも、さらに良くなることができるということでもある。

どんなに今が悪い状態でもいい状態にうつれるということでもある。

今の自分の体系では証明できない論理式を新たに公理として自分に加えれば、自分の体系はさらに強くなれる。

その論理式を得ることこそが成長で、進歩だ。それは経験なのか、技術なのか、それとも人からもらう愛といったものなのか、それはわからない。なぜならそれはきっと、一人一人違うものだから。

 

だからこそ、完璧になろうとするのはやめよう。完璧になろうとするのではなく、今の自分よりほんの少し成長しようと思うだけでいいし、それをずっと続ければ、きっと気づいた頃には10年前の自分とは思いもかけないくらい変わっていたりするのだ。

すべでは小さなもの積み重ね。

でもそのためには、あなた自身が今自分の武器を知ること、つまり自分という形式的体系が何を成せるのか、知ることが大切だ。

そのためには自己への過小評価など必要ない。あなたの持つ最高の武器を磨き続けてくれ。そうして大きな花は咲く。

 

不完全であるからこそ美しい。

なぜならそれは成長と進歩の可能性を秘めているのだから。

 

僕の人生を変えた名著たち

知人から、僕の推薦図書を教えてほしいとリクエストをいただいた。そのようなリクエストをいただけるとは、大変有難いことである。もしかしたら今後もこういったことがあるかもしれないと思ったのと、このあたりで自分の人生を、哲学を、倫理を構築してくれた名著たちを整理するという意味でもその簡単な書評とともに並べて紹介してみるというのも趣があり、面白いと思ったのでここにそれを載せておくことにする。

 

1.無限の始まり(原題: Beginning of Infinity)- David Deutsch

この本の著者David DeutschはOxford大学の教授で量子計算システムの開発をしている。だが彼はただの物理学者では断じてない。幼少の頃、彼は「世界の全てを知ることは不可能なのか」という疑問を持った。この世で知ることのできるものの全てを知る。それは壮大でありながらも、知的探求をする心を持つ人間には至極当たり前にもつ感覚なのかもしれない。

この本のテーマは壮大である。なぜなら世界の究極理論を探す旅に出ているのだから。Deutschの語る究極理論は大きく分けて4本の柱からなる。それは量子論、Dawkinsの生物学、Karl Popperの科学哲学、Alan Turingの計算理論であり、この4つをまとめることで、世界の全てを記述する究極の一つの理論が作られるという大胆かつダイナミックな発想だ。そしてこの究極理論を用いて、花が美しいことの普遍的理由、変化に適応することで生き残る遺伝子、選挙のより最適化されたモデル、文明の発生と衰退、そして人類の未来といったところにまで風呂敷を広げる。だがDeutschにかかればこれらのことも朝飯前で、非常に難解でありながらも誤解のない表現で説明をしてくれる。本当の学問とは、このように分野に線など引かず、分野の境界同士を自由に横断し、そして一見して全く異なるものから共通性を帰納し、普遍化しそこからまた演繹することなのだと教えてくれたのはこの本である。

この本の核となるテーマは、「説明explanation」という概念である。良い説明と悪い説明の違い、良い哲学と悪い哲学の違い、そのターニングポイントが17世紀における科学革命、啓蒙運動であった。この本を読了した頃には、あなたもきっと宗教と科学の違いを明瞭に説明できるようになっていることだろう。

この本がなければ今の僕はいないし、きっと物理学科にも進学しなかったであろう。この本の著者のアイデアは非常にユニークとしか言いようがなく、しかしとても的を得た科学哲学の総まとめなのだ。言わずもがな、今の僕の全てを作った大名著である。この本に出会ったのはまだ齢にして16の時であった。もうボロボロになるまで読み込んだが、未だにわからないところがあるくらい難解だ。だが、読み返すたびに新しい発見があり、同時に自分の成長を実感させてくれる。こういった本を名著と呼ぶのだと気づかせてくれ、そしてそのような本に出会えた僕は大変な幸せ者である。

 

2. 実在の織物:世界の究極理論は存在するか(原題:Fabric of Reality)

-David Deutsch

1で挙げた著者の渾身の処女作。究極理論についてこちらの方が詳しく説明されている。著者の考えは一貫していて、世界を理解するとはどういうことか、古典計算と量子計算における処理困難性と実現不可能性の違い、遺伝子における自己複製子(replicator)の持続可能性、Neo Darwinismとラマルク主義までの哲学の根本的に異なっているところ、一見異分野の異なった風に見えるこれらの共通項は、普遍性のただ一点に尽きる。普遍であるということ、全てにおいて適応できるとは、そのリーチがどのようなものであるかをひたすら演繹しながら説明してくれるこの一貫した論理と姿勢には脱帽である。1つ目の本より難解であるが、読み込むたびに新たな発見をもたらす、こちらも大名著。ただし絶版になっているので価格は時価

 

3. 時間は存在しない(原題:The Order of Time

この本は物理学のさまざまな観点から時間に関する説明をしてくれる。邦訳がちょっとまずくて、時間は存在しないというより(絶対)時間は存在しないの方がより正しい意味にとれるかもしれない。著者は時間の存在を否定するのではなく、時間の存在を物理的な観点と、我々人間の感覚のスケールの両方から説明してくれる。つまり、熱力学、統計力学、相対論などで学んだ時間の概念を整理して、日常の感覚に落としこむという意味ではとても効果を発揮してくれた。この本はScientistたちの精神性を重視してくれている。物理学は道具ではなく、人間の作り上げてきた結晶であり、とても有機的で不完全で、人間臭い、だからこそ美しいということを教えてくれた1冊である。節々に古典文学からの引用があり、それが章全体が引き締め、哀愁と趣を感じさせる。ある意味ではこれは一冊の物語としても読む価値がある。

 

4. 大栗先生超弦理論入門 ブルーバックス

誰しも、世界の構造の真理を知りたいと一度は思うものではないだろうか。もしそんな記憶がないという人も、忘れているだけの可能性も高い。誰しも一度は、自分の身の回りの世界を不思議と思うし、疑問を持つ。ただあまりにも問題が広すぎて壮大すぎる故に、答えへの糸口がなさすぎて大抵の人は考えることをやめてしまうのだ。

だが、人類の中には、それを考え続けてきた人々がいる。それがこの弦理論の研究者たちだ。著者も例に漏れずその一人である。

世界の最小構造は長さの無いひもであるというのがひも理論(著者の主張を採用するなら弦理論)である。クーロンの法則における電荷という概念から素粒子へ、素粒子から弦へと、世界を構成する基本となるパーツはさらにどんどん小さな世界へと先送りされていった。この手法をくりこみと呼ぶ。この本は序章でそのくりこみ論について簡易な日本語でくどいくらいに説明してくれる。古典物理から現代物理学への変遷の過程で、無限大という問題に直面してきた物理学者は、その問題をさらに小さい素粒子の世界に先送りすることで回避してきた。そしてその苦し紛れとも言えるアイデアが、のちに実際に観測されるという奇跡に、僕は人類の発想力の偉大さとそのアイデアの美しさに感動した。

また、空間と時間が等価であるという相対性原理をこれでもかというくらい強調してくれる。

長い間、一般相対論と量子論を統合する統一理論は完成せず、いまだに人類はその答えに辿り着いていない。だが、その統一理論への最も有力な手法としてこの弦理論は注目されている。その弦理論について理論の起こりと歴史から平易な言葉でありながらもエクサイティングに説明してくれる。

物理学とは、機械的なものではなく、人の精神性が創り出す汗と涙の結晶なのだと、この本を通して改めて感じた。それから電磁気の元となるベクトルポテンシャルという量(ゲージ量)を金融市場を用いて説明しているのは非常にユニークだし、面白かった。この部分は別の定性的解釈の視点を僕に授けてくれたので、読んでいてとても楽しかった部分である。

個人的に、我々の生きている世界は10次元という話が一番面白かった。良著。

 

5. 物理入門コース 相対性理論岩波書店

これは物理学科向けの本で、ちゃんと数学的に特殊相対論に入門する本である。古典力学Maxwell方程式と、基本的な微分積分、行列の知識があれば入門していけるはず。

僕はこの本の前に別の本で入門したが難しすぎて半分しか進めなかった。そこで、この本で勉強したら、式の導出がとても丁寧でスッと特殊相対論の世界に入門できた。

マイケルソン・モーレーの実験、ローレンツフィッツジェラルドの収縮仮説など、Lorentz変換までの導出が鮮やかで、さらにはエーテルの話や天体論の話も序章に入っていて、単純に読み物としても面白いし、この本からは一貫した哲学を感じる。

それは、この著者も相対論の表現する数式ではなく、その背後にある精神性に惹かれているのだと、読んでいて感じさせられる点だ。精神性に共感してくれる人の書く本は面白い。この本もそれに漏れないことを僕は保証する。ただし、最終章の一般相対論の部は紙面の関係であまりにも説明を端折っているので、一般相対論は別の本で入門すべきだろう。そこは読む必要がない。

しっかりと数学的に相対論を理解できたなら、きっと世界の展望は大きくひらけてくるだろう。

 

他にもDawkinsの利己的な遺伝子など、読んでよかった名著は存在するが、こういうのはごちゃごちゃあげても意味がないので、数は絞った。今の自分を確実に作っているのはこれらの本である。特に、1,2の影響は計り知れない。

少しでも僕の書評で興味を持っていただけて読んでみたいと思ったら手にとって読んでみてほしい。

あなたの最高の読書ライフにわずかにでも貢献できればと思い、このブログを閉じます。お読みいただきありがとうございます。

 

理性の罠、情欲という罠、その2つが織りなす螺旋の罠

雌雄という生殖のための対になる区別がある以上、異性を好きになるというのは非常に自然なことである。

この世に生を受けてから20年以上経過してもその感覚を知らずに生きる人もいれば、恋愛体質的で、常に異性との交流が途切れない者もいるというのも事実である。

 

自分の人生に恋愛など全く必要ないと断言する者もいれば、常に異性とうまくいくことこそが人生の幸福であると言わんばかりに異性へのいわゆる受けというものへの執着に支配されている者もいる。

 

これは両極端に振り切った例であるが、大多数の人はその中間くらいの位置に恋愛を置いているのではないだろうか。

 

人を3つに分けた時、本能、理性、そして魂に分けることができる。

異性を意識した時、まず最初に本能が働くだろう。それは、我々の遺伝子に刻まれた子孫を繁栄させるために必要な能力のことだ。相手の遺伝子が欲しいという欲求は大なり小なり人は抱くものだ。そのステップとしてエンドルフィンが分泌し、異性の肉体に対して情欲を得る。これは正常な人間なら誰しも感じる自然なステップで、何ら悪いことではない。

次は理性の段階である。野生の生活であれば、本能の赴くままに求愛を示し、交尾に移行する段階となるが、その肉体からの反応に対して理性ある人間はさまざまな行動パターンが見られる。

好きという気持ちを伝た後のことを考え、もし玉砕してしまったらと、相手との関係の進展よりも、現状維持を優先してアプローチをすることができず、内に秘め続ける者、逆に相手と肉体的な関係に持ち込むためだけに、相手の気持ちを掌握しようと試みる者、外見を磨く者、相手からの求愛を待ち続けるもの、などさまざまなパターンがある。

 

恋愛のアプローチがうまくいかないことで自己肯定感が下がり、精神的に疲弊してしまう者も生まれてくる。こういうことを書いている私も例に漏れずその一人であった。

 

ここにすでに理性と肉体の拮抗が生まれ、対立し、分断が生まれることで人は苦しみを得てしまう。重要なのは、これらの分断反応は人間の反応として自然であると、まずは受容することが重要なのである。

理性をもったことによって人は、社会性を言語化し、更には自身への損得勘定という物も覚えた。それによって本能に赴くことで社会の秩序を乱す可能性があることは事前に制御できるようになった。

かといって、遺伝子による生殖本能も、人間が繁栄を続けていくことで無論重要である。

 

人間の恋愛とは非常に面白いもので、これほど理性と肉体が対立しやすくある状況が生じやすいのも他にはないだろう。

例えば誰かを好きになるとする。すると次はどうやってアプローチしようと考えたり、ちょっとしたことで自分が相手に嫌われてしまったのではないかと考えたり、他に恋人や好きな人がいたらどうしようなどと考えてしまったりするのだ。

それでうまく交際されたら、次は相手が浮気をしていないかとかそういう不安を人は抱きやすくなる。

これはまさに疲弊する恋愛だ。

理性の罠に嵌ってしまっている。

 

それから好きになった人が例えば既に結婚してしまっていたりした場合、理性ある人はその場で諦めるか、執着の強い人は相手のパートナーに激しい嫉妬を覚えたり、またあるものは不倫を続けたり、なんとかしてこの恋愛をうまくいかせようと、不倫を否定しない都合のいい占い師のもとに通い詰めたりする。

 

こういった一見対照的に見える2つの作用も、人間の持つ第3のパーツ、魂によって上手に制御でき、それによって恋愛的な苦しみも克服できると私は考えた。

 

ここで、これまでの肉体や精神つまりは理性への考察から一歩離れて考えてみることにする。人が生まれる前、つまり2次成長期に入る前の男女の子供は、相手の性別を特に意識することなく一緒に鬼ごっこをしたり遊んだりすることが多い。

それは生後からの時間が短ければ短いほど、互いの性別の違いをあまり意識しない。

その後獲得していく知識レベルや、社会性のレベルから離れ、こういった生まれてまもない頃の、文化や社会の制約を受けていない頃の状態を社会哲学者のJohn Rawlsは原初状態(original positon)と定義し、以下のように説明されている。

 

It is not enough -- indeed, it is irrelevant -- to say that the contract is historically inaccurate, or that the veil of ignorance is psychologically impossible, or that the original position is in some other way unrealistic. The question is not whether the original position could ever really exist, but whether the principles which would be chosen in it are likely to be fair, given the nature of the selection process.

Will Kymlicka, Contemporary Political Philosophy: An Introduction, Oxford: Oxford UP, 1990, p. 63.


内容としては、原初状態においては、 各人の個人情報(社会的階級、人種、性別、宗教、価値観) は無知のベール(veil of ignorance)の背後に隠されているため、 各人は自分の特定の状況について知ることができないと想定される。 (ただし、各人はまったく価値観をもたないわけではなく、 自由、機会、富、収入などの、 どういう生き方をするにしても望ましいもの[primary goods]は、 なるべくたくさん欲しがっているものとされる。 (彼はこれをthin theory of the goodと呼ぶ) これによって、 各人は特定の自己利益や価値観から解放され、 偏見のない公平な見地から正義について考えることができる。

 

この考え方で言うなら、まさに異性を意識するレベルに達するまでの子供というのは、veil of ignorance(無知のベール)という言葉によって説明され、そういった感覚から離れることだができる。つまり、恋愛によって生まれる苦しみは、精神レベルでも肉体レベルでも、成熟の過程で人間が獲得する後天的なものであると気づいてしまえば話は見えて来る。

そして私はその無知のベールにある頃の子供のような時の感覚、これを魂と呼ぶ。

日本語には3つごの魂百までという言葉があるが、3歳になるまで子供はどんな言語だろうと習得できるし、どんな文化にも適応でき、大人以上に聞き取れる音の可聴域も広く、嗅覚や視覚も鋭い。

成長の過程で徐々に失い忘れていくものがある。

 

もし人に生まれる前の姿があるとするならば、一般に人はこれを魂と呼ぶが、生後理性を獲得するまでの人はまさにその剥き出しの魂により近い状態であろう。

少し生々しい話をすれば、生後間もない男児が成人女性に欲情することもなければ射精の快楽を得ることもない。理性に関して言えば言わずもがなである。

ということは、魂により近い、または魂であるとは、異性の区別はないとも解釈できる。

 

理性と肉体の成長によって忘れてしまったその魂の感覚を取り戻すことができれば、一見相反する理性と肉体の乖離をコントロールすることができるだろう。

その段階まで来れば、これらは適宜使い分ければいいだけの道具であることに気づく。

 

魂の欲求を軸に置いた時、もしあなたが誰かを好きになったならば、まずは内側にその感情が理性によるものは本能よるものかをじっくり問うてみれば良いだろう。

好きだから相手のために何かしたい、とか、逆に好きだから近づかない、とか好きだから性的な交渉をしたい、とかという感覚はいずれにせよ正常である。

しかしもっとじっくりその感情を観察し、それらは生後の成長によって後天的に獲得した感覚から想起したものであると、その意識すら持つことができれば、その感覚に支配されることはなくなるだろう。

魂に性別などないのだから、まずは人として好きなってもらうことを考えれば良いわけである。とすれば自然に相手を支配しようという感覚や、逆に緊張しすぎて嫌われることを恐れて話しかけれないといった反応も起こらないであろう。人としての対話を続けていく中でもちろんそういう情欲が湧くこともあるかもしれない。

そこでお互いに情欲を感じあえるならば、自然とそういった行為にも入っていくだろうし、逆に行為後のトラブルというのもなくなるであろう。

 

逆に自分だけが好きで、相手はそうではないということもあるかもしれない。その場合は無理に好きになってもらおうとするのではなく、相手が自分を好きになるという「現象」が起こるのを待てば良いだけである。それでも好きになってくれない時は自分に問いかけ直して執着を捨てていけば良い。

 

また、逆に異性として関係を作るのはうまいが、付き合ってからうまくいかなかったり、長期的な関係を構築できない者も一定数いる。それで開き直っているのならまだしも、自分は人を好きになれないとネガティブになる者もいる。

それは単純に人よりも同じ異性に対して放出するエンドルフィンの分泌が終わるのが早いだけであり、むしろそれならそれで、恋愛感情がなくなってもなお、一緒にいて居心地が良かったり、人として尊重できれば、恋愛的な見方をすて、一人の人間としてしっかり見ることができれば長期的な関係も構築できるだろう。そこからいずれ結婚へ向かうかもしれない。

魂という視点で相手との関係を考えれているのか、それとも自分の情欲を満たすだけがその人との限界なのか、それは相手によって異なるであろうし、自分や相手の成長レベルによるだろう。

 

自分の感覚の中にある情欲と理性が、実は後天的に獲得したものであるという視点を持てれば、人は魂と対話を始めるだろう。

 

自分の本当の欲求が、理性や肉体の欲求と同一のものだと思い込んでいると、理性と肉体が拮抗を始めた時、人は「本当は自分はどうしたいのだろうか」と一つのジレンマに陥る。これはまさに内部での闘争である。

そしてそれこそが、理性と情欲の作り出す幻影であり、罠であったのだ。

だが誰しも一度や2度、こういった世界に入り込んでしまう。

だからこそ、そこの陥りそうになった時、それが幻影だということに気づいてほしい。

そして自分の奥深くを知る対話を始めれば良いのだ。

 

 

 

魂と肉体の等価原理

人は簡単に壊れる。

 

それは精神的な意味で。

 

内側の変化は外からは見えない。

そしてそれは本人でも気づかないし、他者が気づくことはもっと難しい。

 

人の肉体には、遺伝子によってプログラムされた生存本能がある。命の危機に晒された時、防衛本能としてストレスホルモンのコルチゾールが分泌されるようにできている。

 

人は野生から離れて生活を始めたものの、肉体は未だ野生の時の機能を保有し続け、精神的な苦痛に対しても生存本能のためのコルチゾールが分泌される。ストレスの環境下に晒され続け、自分自身のコルチゾールの分泌を促し続けると人は壊れ始める。

 

私はそれを多く体験し続けてきた。

そしてそこからどうやって抜け出すかと言うことは実に重要なことだ。

躁鬱や被害妄想に侵された結果、人は壊れてしまう。

 

人は自分自身の変化の中において肉体と魂を切り離して考える必要がある。

ここで便宜上魂と言う言葉で表現したが、そういった根拠のないことに対してよく思わない方は、精神のことを意味すると思っていただきたい。

 

ただし、私が魂という言葉を用いたのは、物理的法則では解析できない次元の概念という意味で用いた。単なる精神と表現するなら、脳内の神経伝達物質の分泌量である程度の解析ができてしまうところが精神であり、それは私が表現する魂という言葉には含まれていない。

 

何が言いたいか。

つまり、精神や肉体の変化は常に遺伝子にプログラムされた反応の結果でしかない。それは生物学や物理学に従う解析可能な変化だ。

なら、我々理性ある人間は、その遺伝子によってただ操られているだけなのか。

もっというと、理性ある人はある程度のストレスでも自分を犠牲にしてしまうことがある。では、その美しい自己犠牲精神は遺伝子の操作によってもたらされているのか。

 

私は違うと思う。

故に肉体、精神という一つのセットと魂は切り離して考えられるべきだと思う。自分が辛くても苦しくても、頑張った結果、自分を壊してしまう人が多くいる。そう言った美しい心を持った人が自分を壊してしまうような、そしてそれを許しているこの世界に対しては憤りを感じるところであるが、それは別の話として、そもそもそう言った人間の意思による力は、遺伝子の持つ制御を超えている能力であると私は考える。

 

普通の動物であれば、遺伝子が肉体を操作し、生命維持の役割を果たそうとする。だが、人間は進化した知性によって遺伝子と衝突を起こすようになった。むしろ、理性の支配する社会では遺伝子の本能剥き出しで生きるということは難しくなった。これが人間の社会である。

 

ということは、我々が自身の中に感じる欲求は、「肉体・精神」の欲求なのか「魂」の欲求なのかを判断する必要がある。

例えば、食欲、睡眠欲、性欲これらは肉体の欲求に該当する。ただし、食欲に関しては、空腹になった時にただ空腹を満たしたいという感情は肉体的欲求であるが、質が高くて美味しいものを食べたいというのは精神的な満足に該当するだろう。性欲に関しても、ただオーガズムに達したいという欲求は肉体的な満足であるし、性行為を通して相手の愛情や温もりを感じたいというのは精神的な欲求であると考えらえる。

それから、承認欲求などもそうだ。社会的に地位の高い職業や立場につくことで、自尊心を得たり、ソーシャルネットワークサービスなど、電脳的な仮想世界の中で良い評価を得たい、認められたいというのは理性を手に入れた人間の精神的欲求の一つであろう。

 

だが、いずれにしてもそれは魂の欲求ではないのではないか。

魂の欲求とは、肉体・精神といった物質的な世界からきりはなれて、他人の評価など関係ない、つまり他者の介入を許さない世界の欲求であると思う。絵を描くことが好きな子供は、自分の絵を他人といちいち比べて描くことはないだろう。自分の世界に没頭している。それから草原を走り回る子供も、走っている自分が他人からどう思われるかなんて思いながらやってはいないだろう。

それがなぜか、大人になると、子供のように本気でおままごとなんかをやっていたら、頭のおかしい人などと言われるだろう。ただ好きで女装をしている人も、今でこそある程度の理解は増えてきたが、時代が違えば気の狂った人などど揶揄されていたことであろう。

 

現実世界という縛りを得ることで我々は魂の欲求を忘れていく。そして精神と肉体の欲求こそが自分の欲求なのだと勘違いし、どんどん社会のパラダイムに侵されていく。それが他者あるいは自分の外の世界によって作られた欲求なのか、自分自身の本当の欲求かどうか批判、判断する能力も無くしていく。

 

そしてその魂と肉体精神が乖離して行った時、最終的に人は壊れるのであろう。

もうそうなった時、その人は目の前にあること、自分の目に見える世界のことしか気にできなくなる。その小さな世界の中で、自分がどう思われるか、そういうことを気にして生きていくことになる。

 

だが、肉体と魂が共存できれば人は本当の意味で自分らしく生きることができるだろう。決してどちらか一方が自分を支配するマスターであるわけでもないし、魂と遺伝子が、交互にお互いを支配してやろうとして拮抗しているわけではない。本来はそうではない。だが現実として多くの人はそうなってしまう。魂と肉体の間にどちらの方が高次か低次なんて当てはめ、支配する関係を作ってしまう。

 

そこで我々が意識したいことは、魂も肉体も、両方とも自分であって、同時に両方とも他人であるということを意識すべきだ。

常に我々の中には動物としての人間と魂としての人間の2つが混在している。

そして重要なのはそのどちらも満たしてあげるということだ。

我々はまず、この自分の動物としての肉体が、自分のものではないということに意識を置くべきだろう。この体は借り物である。が、同時に体を支配しているわけではない。だから動物としての自分と戦うのではなく、動物としての自分の幸せにも気づいてその自分に幸せを与えてあげることも重要であろう。

と同時に、魂の欲求にも気づき、時には肉体には魂の欲求のために働いて燃えあう必要もある。でなければ魂と肉体が対等ではない。

 

物理の世界には等価原理というものがある。それはどの座標系や計量もどちらが基本ということはなく、宇宙には特別な座標系などないという見方で、これをもとにアインシュタインは相対論を構築した。

 

同様に、目に見えるものであれ、見えないものであれ、それらは等価である。どちらか一方が高次だの低次だのと二元論を語るものがいるが総じて彼らは衒学者である。

重要なのはその背後に何があるかを知ることだ。

 

魂と肉体を共存させるということはある意味では等価交換だ。肉体が欲求を満たしたら、次は魂の欲求を満たしてあげればいいし、その次は肉体の方の欲求を満たしてあげればいい。が、この等価関係が崩れ、どちらかに偏った生活に陥ると、精神的あるいは物理的な何らかの不調が生じてくる。

 

常に我々は第3の目を持つことだ。自分の脳内に湧いてくるさまざまな感情、そして直感、あらゆる内部の現象に対して「あぁ、今自分の中でこういう現象が起こってるな」とか「今自分はこういう気分になっているな」と言ったふうに、どんな状況でもその自分を客観視する第3の目を養うことができれば、我々は自分を見失わずには済むであろう。

ひどく腹が立つことがあれば「今、腹が立っている自分がいるな」と一歩退いて冷静に自分を見ることができればなお良いと思う。

 

自分を満たせる、自分を幸せにできる、とは、常に自分を一歩退いて自分を見ることができる人間のことであろう。それには瞑想はなお良い。1日5分でもいいから何も考えない自分を作る時間を取ってみると、それもまた生活は変わる。

 

そうすることで、私は自分を今でも保つことができている。

このブログの読者諸君が壊れそうになった時、ここで読んだ言葉を思い出してほしい。

あなたが壊れることなどないのだから。

 

 

 

自主ゼミ案内

自主ゼミをやります。

 

特に数学科の方に受けて欲しくて、今後の幅が広がるので。

数学科の人なら割と簡単に理解できると思います。

参加希望者はインスタの方にDMをください。そこからZOOM IDを送ります。


・特殊相対論入門:全5回(予定)毎週日曜午前10時〜 ZOOMにて
(内容)特殊相対論では慣性系の座標が等速運動するという、いわゆる慣性力の再定義から入り、光速度不変の原理を導入することで、等速運動なら座標変換によらない表現方法を探求していきます。その過程で3次元ユークリッド空間に、時間軸ctを追加した四次元時空の中でも幾何学が成り立つように、線素という量を導入しますが、それが時空での世界線と呼ばれるもののお話になっていきます。
4次元軸の中で、運動方程式つまりは力学の再定義と、さらに電磁気学の再定義まで行けたらいいなってのが今回のゼミのゴールです。

量子力学入門:全5回(予定)
特殊相対論の光速度不変の原理に対して、量子論ではハイゼンベルグが提唱した不確定性原理のお話が全体になります。ミクロな世界での粒子の振る舞いは、位置と運動量が同時に測定できないため、存在を確率で表すしかなくなるため、その確率(量子状態)を波動方程式で表します。
現在量子力学は多くの分野に別れていて非常に複雑で、さらには微分形、行列形、ブラケット形式など、さまざまな表現方法があります。
ここでは入門ということで、1次元の波動方程式までの解説に止め、波動方程式の導出、並びに二階の偏微分方程式の解説に絞って話をしていきます。
トンネル効果あたりまで解説できれば嬉しいかなという感じです。

・物理数学入門(主にフーリエ解析):全5回(予定)
物理では、力学、電磁気学、熱力学、振動・波動、統計力学量子力学、相対論、流体力学
といった分野に大きく別れます。(理科大では三年で専門を分けるので、一般相対論や統計力学流体力学は選択科目になるみたいですが,,,でも全部勉強したいよね笑)
それを理解するために、線形代数微分積分学をはじめとして、常微分方程式偏微分方程式、は当たり前ですが、さらに微分幾何学フーリエ解析複素解析の知識も必須です。ただこの辺は授業ではさらっと流されそうなので、5回で主にフーリエ解析複素解析に焦点を絞って解説をしていきます。基礎的な問題を解けるようになること、ほんとに基礎的な定理の証明をできるようにすることがゴールです。
5回でどこまで行けるかわかりませんががんばります。