Rhynie Chert-ライニーチャート-

それでもこの世界は美しい

魂と肉体の等価原理

人は簡単に壊れる。

 

それは精神的な意味で。

 

内側の変化は外からは見えない。

そしてそれは本人でも気づかないし、他者が気づくことはもっと難しい。

 

人の肉体には、遺伝子によってプログラムされた生存本能がある。命の危機に晒された時、防衛本能としてストレスホルモンのコルチゾールが分泌されるようにできている。

 

人は野生から離れて生活を始めたものの、肉体は未だ野生の時の機能を保有し続け、精神的な苦痛に対しても生存本能のためのコルチゾールが分泌される。ストレスの環境下に晒され続け、自分自身のコルチゾールの分泌を促し続けると人は壊れ始める。

 

私はそれを多く体験し続けてきた。

そしてそこからどうやって抜け出すかと言うことは実に重要なことだ。

躁鬱や被害妄想に侵された結果、人は壊れてしまう。

 

人は自分自身の変化の中において肉体と魂を切り離して考える必要がある。

ここで便宜上魂と言う言葉で表現したが、そういった根拠のないことに対してよく思わない方は、精神のことを意味すると思っていただきたい。

 

ただし、私が魂という言葉を用いたのは、物理的法則では解析できない次元の概念という意味で用いた。単なる精神と表現するなら、脳内の神経伝達物質の分泌量である程度の解析ができてしまうところが精神であり、それは私が表現する魂という言葉には含まれていない。

 

何が言いたいか。

つまり、精神や肉体の変化は常に遺伝子にプログラムされた反応の結果でしかない。それは生物学や物理学に従う解析可能な変化だ。

なら、我々理性ある人間は、その遺伝子によってただ操られているだけなのか。

もっというと、理性ある人はある程度のストレスでも自分を犠牲にしてしまうことがある。では、その美しい自己犠牲精神は遺伝子の操作によってもたらされているのか。

 

私は違うと思う。

故に肉体、精神という一つのセットと魂は切り離して考えられるべきだと思う。自分が辛くても苦しくても、頑張った結果、自分を壊してしまう人が多くいる。そう言った美しい心を持った人が自分を壊してしまうような、そしてそれを許しているこの世界に対しては憤りを感じるところであるが、それは別の話として、そもそもそう言った人間の意思による力は、遺伝子の持つ制御を超えている能力であると私は考える。

 

普通の動物であれば、遺伝子が肉体を操作し、生命維持の役割を果たそうとする。だが、人間は進化した知性によって遺伝子と衝突を起こすようになった。むしろ、理性の支配する社会では遺伝子の本能剥き出しで生きるということは難しくなった。これが人間の社会である。

 

ということは、我々が自身の中に感じる欲求は、「肉体・精神」の欲求なのか「魂」の欲求なのかを判断する必要がある。

例えば、食欲、睡眠欲、性欲これらは肉体の欲求に該当する。ただし、食欲に関しては、空腹になった時にただ空腹を満たしたいという感情は肉体的欲求であるが、質が高くて美味しいものを食べたいというのは精神的な満足に該当するだろう。性欲に関しても、ただオーガズムに達したいという欲求は肉体的な満足であるし、性行為を通して相手の愛情や温もりを感じたいというのは精神的な欲求であると考えらえる。

それから、承認欲求などもそうだ。社会的に地位の高い職業や立場につくことで、自尊心を得たり、ソーシャルネットワークサービスなど、電脳的な仮想世界の中で良い評価を得たい、認められたいというのは理性を手に入れた人間の精神的欲求の一つであろう。

 

だが、いずれにしてもそれは魂の欲求ではないのではないか。

魂の欲求とは、肉体・精神といった物質的な世界からきりはなれて、他人の評価など関係ない、つまり他者の介入を許さない世界の欲求であると思う。絵を描くことが好きな子供は、自分の絵を他人といちいち比べて描くことはないだろう。自分の世界に没頭している。それから草原を走り回る子供も、走っている自分が他人からどう思われるかなんて思いながらやってはいないだろう。

それがなぜか、大人になると、子供のように本気でおままごとなんかをやっていたら、頭のおかしい人などと言われるだろう。ただ好きで女装をしている人も、今でこそある程度の理解は増えてきたが、時代が違えば気の狂った人などど揶揄されていたことであろう。

 

現実世界という縛りを得ることで我々は魂の欲求を忘れていく。そして精神と肉体の欲求こそが自分の欲求なのだと勘違いし、どんどん社会のパラダイムに侵されていく。それが他者あるいは自分の外の世界によって作られた欲求なのか、自分自身の本当の欲求かどうか批判、判断する能力も無くしていく。

 

そしてその魂と肉体精神が乖離して行った時、最終的に人は壊れるのであろう。

もうそうなった時、その人は目の前にあること、自分の目に見える世界のことしか気にできなくなる。その小さな世界の中で、自分がどう思われるか、そういうことを気にして生きていくことになる。

 

だが、肉体と魂が共存できれば人は本当の意味で自分らしく生きることができるだろう。決してどちらか一方が自分を支配するマスターであるわけでもないし、魂と遺伝子が、交互にお互いを支配してやろうとして拮抗しているわけではない。本来はそうではない。だが現実として多くの人はそうなってしまう。魂と肉体の間にどちらの方が高次か低次なんて当てはめ、支配する関係を作ってしまう。

 

そこで我々が意識したいことは、魂も肉体も、両方とも自分であって、同時に両方とも他人であるということを意識すべきだ。

常に我々の中には動物としての人間と魂としての人間の2つが混在している。

そして重要なのはそのどちらも満たしてあげるということだ。

我々はまず、この自分の動物としての肉体が、自分のものではないということに意識を置くべきだろう。この体は借り物である。が、同時に体を支配しているわけではない。だから動物としての自分と戦うのではなく、動物としての自分の幸せにも気づいてその自分に幸せを与えてあげることも重要であろう。

と同時に、魂の欲求にも気づき、時には肉体には魂の欲求のために働いて燃えあう必要もある。でなければ魂と肉体が対等ではない。

 

物理の世界には等価原理というものがある。それはどの座標系や計量もどちらが基本ということはなく、宇宙には特別な座標系などないという見方で、これをもとにアインシュタインは相対論を構築した。

 

同様に、目に見えるものであれ、見えないものであれ、それらは等価である。どちらか一方が高次だの低次だのと二元論を語るものがいるが総じて彼らは衒学者である。

重要なのはその背後に何があるかを知ることだ。

 

魂と肉体を共存させるということはある意味では等価交換だ。肉体が欲求を満たしたら、次は魂の欲求を満たしてあげればいいし、その次は肉体の方の欲求を満たしてあげればいい。が、この等価関係が崩れ、どちらかに偏った生活に陥ると、精神的あるいは物理的な何らかの不調が生じてくる。

 

常に我々は第3の目を持つことだ。自分の脳内に湧いてくるさまざまな感情、そして直感、あらゆる内部の現象に対して「あぁ、今自分の中でこういう現象が起こってるな」とか「今自分はこういう気分になっているな」と言ったふうに、どんな状況でもその自分を客観視する第3の目を養うことができれば、我々は自分を見失わずには済むであろう。

ひどく腹が立つことがあれば「今、腹が立っている自分がいるな」と一歩退いて冷静に自分を見ることができればなお良いと思う。

 

自分を満たせる、自分を幸せにできる、とは、常に自分を一歩退いて自分を見ることができる人間のことであろう。それには瞑想はなお良い。1日5分でもいいから何も考えない自分を作る時間を取ってみると、それもまた生活は変わる。

 

そうすることで、私は自分を今でも保つことができている。

このブログの読者諸君が壊れそうになった時、ここで読んだ言葉を思い出してほしい。

あなたが壊れることなどないのだから。