Rhynie Chert-ライニーチャート-

それでもこの世界は美しい

僕がシェアハウスに住み始めた理由。

京王線明大前駅から徒歩圏内、ひっそりとした住宅街の中に2階建ての一軒家がある。1階はリビング、トイレ、キッチン、風呂があり、リビングの隣に作られた壁には3畳ほどの部屋が2つ。2階には部屋が4つとトイレ、洗面台がある。

 

僕がここにきてもう一年。

ちょうど2020年の8月に僕はこの家にやってきた。

 

シェアハウスなんて正常な思考のやつが住むところじゃあ決してない。

そう思っていた。

だが一年前の僕には選択肢がなかった。

昨年居酒屋の社員を辞めて一旦五年ぶりに実家に帰省してみたはいいものの、やはり折り合いなどうまくいかず3ヶ月くらいで出て行って板橋の友人の家に転がり込んだ。

だがその友人の家も解約が決まっていて、東京について早々に僕は次の住処を探さなければならなかったのだ。

 

俺はただ静かに本を読んだり勉強したりして、そんなに派手じゃなくてひっそりと生きていきたいだけなのに、人生の試練は次から次へと俺に降りかかってくる。

 

そんな中だった。

当時友人の家には本棚があり、そこにたくさんの本が収集されていて、たまたまある一冊の本が目に見えた。

本の名前は「金持ち父さん、貧乏父さん」

現代を生きる人々なら名前くらいは聞いた事があるだろう。

いわゆる自己啓発本の代名詞みたいなものだ。

くだらない本だと思う、こういう信者がありがたがるような本は。

 

だが読んでみると、割と面白かった。

固い仕事をしている筆者の実の父を貧乏父さん、近所の友人の会社経営をしているお父さんを金持ち父さんと読んで二人を対比しながら論を展開していく内容だった。

こういう本を書くやつの手口として、大抵そのお父さんなんてのはフィクションで仮想的な存在なのだと思う、というか勝手に俺はそういうもんだと考えている。

 

だけど俺は貧乏父さんの堅実な生き方の方に惹かれた。

むしろ俺はただ堅実にしっかりと生きたいだけなのになぜいつもいつもこんなギリギリの生活を強いられるのだと、半分自分の運命を呪おうともした。

だが、この本を読んでいて、何だか改めて自分の運命に抗ってやろうという気持ちがふつふつと沸き起こってきたのだ。

 

これは投資を勧める本であるが、決して俺はこの本を読んで投資を始めようとは思わなかった。むしろ大切なのは知識であると悟ったのだ。

この本を書いているこいつは確かに今となっては財を気づいたかもしれない、だが恐らく彼が財を為したのはその投資技術ではなく、こうやってただ何となく人を説得させて自分のセミナーなどに参加させてお金を巻き上げる事のおかげなのだろう。

クズめと思う。だがそれ以上にこいつにはそういう下衆なこずるい知恵があるのだ。それは一種の才能かもしれない。そしてその手段としてこいつは知識を使う。何となく知識を組み立ててそれっぽく見せて説得力を持たせてリテラシーのない人間から搾取していく。

だが逆に俺は思った。こいつは知識を悪い方向に使っているが、それもまた知識の使いようだ。

なら俺は、自分自身が静かにひっそりと生きることに知識を使いたいと思い、そのために知識を得たいと思った。つまり知らないということは搾取されることであり、知るということは自分を守る武器にもなる。

こういうところでも逆転の発想で自分の勉強意欲を高めるということだ。

 

そして俺はその本をきっかけに自分の残り少ない残高の使い道を考えることになる。

手元には20万くらいあったと思う。ここで普通に1Kの部屋など借りたら今の財産を全て失う。

例えば敷金や礼金というものを払ったとして、その支払ったお金をまた稼いで回収するのに一体どれだけの労働力のロスがあろうか。

その時間で自分は勉強することもできる。

そうなると重要なのは投資家でも何でもない俺にとって時間=お金、つまりTime is moneyという言葉が浮かんでくる。

が、そのお金で大学の試験に落ちたらそれ以上の損失になると踏んだ僕は決心をする。

 

「屋根さえあれば、それ以上贅沢は言うな」

 

そうして頭にふとシェアハウスという考えが浮かぶ。

よくよく考えれば、僕にとって本当に一人でくらしていたのは放浪中の16歳の時、そして東京にきて江戸川区に住んでいた頃のたった4ヶ月の話だ。

あとは誰かしら家にいるような環境で生活していた。

 

つまり俺は、一人が好きでありながら半分以上誰かと空間をシェアしながら生きてきた人間なわけで 、共有生活というやつにきっとある程度耐性があるのだろう。

それでも、一人の時間を少しは確保できる環境でなければ僕には絶対に無理な話だが。

 

それでも初期費用に30万払ったとして月に2万円づつ貯金をするなら、15ヶ月の損失を僕はする。

それはどうしても避けねばならない。

そこでシェアハウスなら初期費用がかからないところがほとんどだと知り、スマートホンを駆使していろんなシェアハウスを探した。

 

とりあえず、飯田橋付近と下北沢付近で探した。

受験予定の大学が2つあって、その大学から近かったからだ。

 

4件くらいみた気がする。

正直、ピンとくるところはなかった。

というか人生において本当の意味でピンとくる瞬間て本当は存在しないのかもしれない。

何か、結局自分に無理やり思い込ませているような気がするのだ。

それが「自分に必要」だと。

それは自身に対する洗脳とも呼べる。

 

そして内見を済ませた僕は一度板橋の友人の家に戻り、必死こいて考えた。

どんな手段を取るべきなのか。

自分はどこに行くべきなのか。

どこも正解じゃないし、どこも正解と考えられる。

多すぎる選択肢に迷わざるを得なかった。

 

下北沢には少ない家賃でベッドしかないぼろ小屋もあったし、少々値は貼るがキレイめでシャワー室や冷蔵庫もいくつかありキッチンも広い家もあった。

だが最後に決めたのはこの明大前の家だった。

 

下北沢の家を内見したとき、そこの案内をしてくれた人が明大前にも家があるけどどうする?と提案してきたのだ。

あまり乗り気ではなかったがせっかくだしと思い腰を上げてその提案に乗ることにした。

駅からの道の距離感、そしてそこまでの景色、全てがピンと来なかった。

家を見た時、とてもここに住もうなんて思いもしなかった。

 

だが今自分が住むことになる部屋を見た時、ここにしようと思った。

理由は多々一つ。

そこに机を椅子があった。

 

3畳くらいのスペースにベッドとクローゼットと机が配置されている。間取りは完全に独房のようだが、それでも自分にとっては十分満足だった。

 

なぜなら屋根のないところで生活するよりマシだからだ。

それに比べたら十分な環境だと思った。

ここで勉強して僕は自分の目標を達成しようと、そう思えた。

 

内見から2日後、案内してくれた人にメールを送る。

そして何の滞りもなくスムーズに手続きは終わる。

 

今まで自分が住んだことも、住もうなんて思ったこともないこの場所で、僕の新たな生活はスタートすることとなった。

 

そして僕がこの一年で、この家でどんな生活を送ってきたのか。

それは次の記事で綴っていくことにしよう。

 

今日はもう寝ることにする。

おやすみ。