少年は名古屋での回想を終え、ままならない意識の中でバスに揺られていた。
夜行バスはもう人生で何度も乗っているが、毎度乗り心地がよくないとも思う。
それでもフィリピンで乗ったバスと比べると、日本のバスは治安がいい。
バスに乗っていて基本的にものを盗まれる心配をしなくていい。
おまけに携帯電話の充電もできる。
そして何より乗客の表情が良い。生死をかけたような切羽詰まる表情の乗客に出くわすことは日本ではほとんどない。
日本でいることに何よりも安心感がある。
フィリピンのマニラに船で着いた時、到底野宿しようなんて気になれなかった。常に命の危険が迫っているようなものだ。誰かが常に見ている。そして誰かが荷物ごとかっさろうとしている気配を感じずにはいられなかったらだ。
名古屋に失望した少年は心機一転、東京を目指す。徳島から北上を続け、ついに東京に辿り着く。距離的には長い移動だった。徳島から神戸、神戸から在来線で富山に向かい、富山から名古屋、名古屋から東京だ。少年の旅が始まってもう2ヶ月が経とうとしていた。
少年の心中は不安でいっぱいだった。自分がこれからどうなるか。だがマニラでの壮絶な景色を見てから、日本で野宿することに躊躇いがなかった。
この国なら大丈夫という安心感があった。なぜなら物乞いをする子供が全くいない。
それがこの国の治安の良さを表している。
「子供は子供らしく」
賛否両論あるこの言葉さえ、そもそも子供を養えるだけの経済力を抱える文化だからこそ存在する言葉であるとも思う。
疲れ切っていた少年はもう回想に耽ることをやめた。
とにかくもう寝てしまおう。そして朝、東京に着いた時にまたこれからのことを考えよう。
ふと窓を見た。真っ暗で何も見えなかった。
そして少年の意識は闇に沈んでいった。
目が覚めた時、バスはまもなく新宿ですとアナウンスが流れていた。
心地よい軽快な音楽が流れる。
不安もありながら少し少年の心は踊る。
「ここで、ここで俺は新しい人生を始めるんだ。他の誰にも邪魔されない自分だけの人生を」
そしてバスは到着する。
2014年8月15日午前5時半、新宿駅西口バス停にて少年は降り立つ。
新宿の空気は思っていたより澄み渡っていた。これが歌舞伎町の付近であれば違っていたかもしれない。
西口の方がまだ綺麗なのが新宿。だが当時そんな分別はない。
ただ徳島では見たこともないビル群の立ち並ぶ景色に最初は圧倒された。
だがいざ東京についてみると、どこに向かえば良いかわからない。
もちろん知り合いは一人もいない。
日本の首都だというのに、僕の親族も親戚も、友人も一人もここにいない。
いったい、自分はなんて閉塞的な世界にいたんだと思ってしまう。
だがむしろ好都合。たった一人から始めれば良いのだから。
人口1千万人以上の大都市。ここから僕の人生を始めよう。
まず向かう場所を考えることにした。
中学三年の頃、友人たちと1泊2日で秋葉原に行ったことがあった。
山手線に乗って秋葉原に向かう。
知っている線は山手線だけ。路線図は複雑すぎて見る気にならなかった。
秋葉原に着く。
改札に切符を入れて、切符を出るときに取り出す。
自動改札は何度見ても革新的で、なんだか未来にタイムスリップでもした気になってしまう。そして圧倒的に感じる人の量。沢山の人が押し寄せるように闊歩する。
なんだかスーツを着ているサラリーマン全員がかっこよく見えるし、私服の人々も先進的で洗練されているように見える。
田舎者の少年の目には全てがキラキラと輝いて見えた。
なんとしてでもこの街に移住するんだ。だから仕事を探すんだ。
少年は自ら言い聞かせた。ここになら、他で見つからなかったどんなものも手に入る気がした。
そして後に少年は色んなものを掴み取っていくことになる。もちろんそれ以上に多くも失うことになるが。
だがそれは少し後の話。ここはただの序章に過ぎない。
まずは駅前のファミリーマートに入る。
まずはフリーペーパーの求人雑誌を手に取る。雑誌の名前はタウンワーク。
少年はまだスマートホンを持っていない。ちなみにこの頃はまだiPhone5sが最新機種だった。
インターネットを使用するなら近くのネットカフェに行かねばならないが、できるだけお金は使いたくなかった。
そこで頼れるのはアナログの求人の掲示やこういったところに無料で置いてある雑誌などであった。
雑誌を手に取りコンビニの前にある円状に組まれたパイプの上にもたれかかる。
いろんな求人がある。
だが逆に多すぎる選択肢は少年を迷わせた。試しにコンビニなどで働いてみようとも思ったが、高校生可と書かれているところがほとんどなく、書かれているところがあったとしても今の自分の状況を説明するのが面倒であった。
そう。いわゆるこの日本という国の常識では当たり前に、16歳は高校に通っているのだ。
今は世間は夏休み。なのになぜかこの街では制服姿の学生も見かける。
きっと地方とは違って何か通学の仕組みが違うのかもしれないなんて考えながら、少し学生服の彼らを羨ましいとも思う自分がいた。
学校など監獄だ。俺は自らの力で鳥籠の檻を開け羽ばたいた一羽のたくましき鳥なのだと、そうは思っても人間というのはないものねだりで、ただ学校と家を往復することだけが許される彼らを羨ましくも思った。
ほんの少し前まで自分も制服を着ていた。だけど自分は制服を着るのが嫌だった。人に決められた服を着ることほど、自分にとって屈辱的なことはなかった。
なのに、今となってはほんの2ヶ月でここまで周りと違ってしまった自分が少し不安になってしまうのだ。
自分がこれから向かおうとしている先は、正解なのかと。
そんな葛藤に追われてしまう。制服姿の同い年の彼らを見るたびに。
そんな事が頭をよぎりながら、一刻も早く仕事を見つけなければならない彼にとってはなんとかアテになりそうなところを探すのが最優先。タウンワークのページをとにかくめくる。めくる。
できれば社宅か寮があるところが良かった。
そこでいくらか電話をかけるが、03から始まる固定回線の電話は全てお盆でつながらなかった。
そこで彼の目に止まったのは江戸川区にある建築会社だった。そこには090で始まる携帯電話の番号が書かれていて、ここならつながると思ったのだ。
そして電話をかける。
1,2,3とコールが増えるたびに、出てくれという悲痛の叫びが内側から湧き上がってくる。
そして何コールかした後、電話は繋がったのだ。