Rhynie Chert-ライニーチャート-

それでもこの世界は美しい

【16歳の家出編⓪】東京に発つまでの序章

人生の転換期は16歳の時だった。

 

学校は不登校。世界の全てが憎かった。

自分の周りの親、教師、地元の人間、学校の同級生

 

僕は井の中の蛙だった。

その小さなドブ川から這い上がれば美しい景色が広がっているというのに。

 

何も知らず、ただ現状に不満を感じるだけの愚かな少年。

高校一年の冬休み明けから学校には行かず、早朝の新聞配達をはじめた。

少年は2014年の5月、フィリピンに向かった。

語学学校に4週間滞在。セブ島へ発つ。

その時の思い出はまた別の記事で語ることにしよう。

 

6月帰国する。しばらく徳島の実家に帰ったものの、呆然とする日々が続いた。

フィリピンで見た景色は壮絶だった。川沿いで長い長いテントの集落を作り、裸一貫で生活する人々。

排気ガスの立ち込める空気の悪い道路をサンダルで歩き回り、真っ黒になりながら1台1台、信号で止まっている車のドアをノックし、手を差し出して何かくれと物乞いをする子どもたち。

華やかなマニラのビルの摩天楼の真下でうずくまり、ずっと手を差し出し続けて物乞いをするだけの痩せこけた老婆、小便臭いにおいの立ち込めるビルの雑踏、観光客を見つけては集団で追いかけ何か奪おうとする小学生くらいの年齢の男の子たち。

 

彼らと同じ年齢の頃、僕は当たり前に小学校に通い、一人で通学路を歩き、家に帰れば宿題をしていた。

 

「人のものを取ったら泥棒」

そんなこと当たり前に教わっていた。僕にとってその小さな町で起こる全てが世界の全てだった。

徳島に高層ビルは無い、ホームレスも駅前にごく少数しかいない。

小学生や女性が夜一人で出歩こうともそんなに危険じゃない。

もちろん東京はまだ知らない。

 

そんな狭い世界しか知らない少年が目の当たりにした世界のリアル。

こんな日常すら世界の一部でしかなくて、僕の知らないもっと残酷で悲惨な現実があるのだと想像しただけで、そんな理不尽な世界に何もできない自分が悲しくなった。

 

こんな世界を変えたい。だけど何もできない。

そんな自分の無気力さにただ何もしない日が2週間ほど流れた。

 

それから母親の元から離れたかった。 

当時の僕が抱えていた世の中に対する不満は全て僕個人の意見ではなく、

思春期特有の一時的な現象であると決めつけられ、排除された。

 

母親は何も聞く耳を持たず、一方的な考え方を押し付けてきた。

学校を中退したいというと、母親にはもちろん、学校の教師たちにも不思議な顔をされる。

 

最初のころは一生懸命説明した。

「こんな小さな田舎で勉強だけして、もっと広い世界を知らないで10代を過ごせば、俺はスケールの小さい人間になる。自分には圧倒的に経験が足りないんだ。だからもっといろんなものを見て、経験して自分自身が成長したい。そのためにあと二年もこんなところで足踏みをしていたくないんだ。」

当時の僕の意識は外に外に向いていたと思う。

 

学校の中で起こっていることといえば、自分と近い地域で生まれた同じ年齢の子供が同じ教室に集められ、画一的な教育を受ける。

そしてその生徒たちは監獄に入れられた囚人のように規則正しい生活をし、定時までには登校をして、決められた時間椅子の上に縛られ、何の主体性もない授業を受ける。

そして休み時間や昼休みに、生徒同士がする会話はスマートフォンのアプリのゲームや昨日のテレビドラマの話、芸能人のゴシップの話に、あとは日常の生活の愚痴ばかり。

 

本気で自分の人生について考えている人間なんてほんのわずかしかいなかった。

そして皆、ただ学校で与えられた勉強だけをこなし、何となく偏差値の高い大学へ行けばいいんだと、そんな雰囲気に飲まれている奴らばかりだった。

 

「お前たちは一体誰の人生を生きているんだ?誰かが望んだ人生を生きているのか?果たしてそれで本当にお前たちは自分の人生を生きていると呼べるのか」

 

当時からすでに新卒内定者三年以内の退職率の増加や、就職難の若者、自殺率の上昇など暗いニュースは誰よりもキャッチしていた自分に取って、この日常はその数値を生み出しうる十分な環境であると気がついた。

 

誰も本気で自分と向き合おうとしていない。

自分に何が向いていて、自分はどんなことが好きで、何がしたいのか。

それを探すのが10代の貴重な時間であると僕は確信していた。

だが今の現状の世の中ではその10代のほとんどが小さな監獄の中で浪費され、大学を出てもやりたいことも自分の意思も無くした若者が多い。

それは今になっても感じる。

 

この流れに流されてしまっては、自分もそうなってしまうという危機感がそこにはあった。

だが当時の僕のその考えはこの狭い地域では排斥される。

 

当時の周りの大人たちから出てきた言葉といえば、学校で学べることは集団生活の大切さだとか、今の時代高校も出てないでどうするんだなんて頭ごなしな意見ばかりで建設的な意見は何も出てこない。

そんな何の根拠もないような話でこの俺を縛らないでくれと、あのとき何度思っただろうか。

俺の人生は俺が決める。

他の誰にも邪魔をされてはならない。

とにかく自分に言い聞かせ続けた。

 

だがその説得も虚しく、考え直せと言われ続け、俺は一年ほど、自分の望まない高校生活というモラトリアムの無駄な時間を浪費させられることとなった。

 

そして同時にこの小さな田舎にい続けては、精神が崩壊すると思った。

誰一人として味方はいない。

だけど自分の周りはまるで僕の気が狂ったとでもいうように、僕個人の意見を排除しようとする。

 

何かに丸め込まれそうになっている状況が耐えれなかった。

ここで自分の意思を貫き、自由と独立のために戦わねばならないと、当時の僕の内側に戦禍の炎が灯ったのがわかった。

 

それからというもの、高校一年の冬休みが明けてから高校にはネグレクトし、登校に拒否の意思を示した。母親とは毎日言い争った。

平和主義の自分には耐え難い現実だった。

 

何度も諦めそうになった。それでも当時の自分は闘わなければならなかった。

 

そして戦い続け、母親は根負けした。中退したのは地元ではそこそこに有名な私立の進学校だった。

だが僕はもうそこでの学びに何の価値も感じていなかった。だが僕の母親にとってはそこでの学びなどではなく、ただその学校に所属しているという事実に重きを感じてるようだった。だから「せっかく入学できたのに勿体無い」と最後まで呟いていた。

 

中退後すぐにフィリピンに飛ぶ。

そして6月に帰国後、7月から富山県の旅館に住み込みで働くことにした。

住み込みという口実を作る頃で家出の準備をした。急にいなくなれば母親は確実に捜索願いを出すと勘づいていたからだ。

 

そして富山に飛んだ。だがそこでのあまりの労働環境の大変さに辟易とした。

同時に、世の中の人間の多くはこんな理不尽な環境で働きながら生きているのかと、それはそれで勉強にもなった。

 

僕は1ヶ月で旅館から荷物をまとめて抜け出した。 

今の僕では到底そんな退職の仕方はできない。最低でも1ヶ月前には退職の連絡をし、「お世話になりました」くらいは言ってから退職すべきだし、実際僕はそうしている。だけど当時の僕にとって重要なのは自由と独立の獲得そのものだった。

 

人間の個性を否定し、ロボットのように人間を当たり前に安月給でこき使い、人格否定も厭わない、そんな労働環境に服従している自分が許せなかった。

 

当時何も怖いものなどなかった。

 

富山を抜け出し、バスで名古屋に向かった。

電話が鳴り止まなかった。電話越しに文句を言われる。だが一蹴した。

労働基準法も守らないで、こきつかってきて、これ以上もう僕に働く義務なんてありませんよ」そう言い放つと、気が狂ったように電話越しの担当者は嫌味を言ってきた。

だがもう、何を言われても気にならなかった。

 

バスで名古屋に着いて仕事を探した。

 

面接をいくつか受けるが、18歳未満を雇ってくれるところは少なく、何とか面接まで行けてもお祈りメールをもらうだけだった。

 

旅費なんてないに等しいので、名古屋駅のネットカフェを利用し、それでも金が惜しいときは路上の花壇の下で寝た。

 

割と名古屋駅の近くはホームレスのコミュニティのようなものがあって、路上で寝てる人も多い。

そして名古屋の人もそれを当たり前に思っている節もあるようで、あまり周りを気にせず眠ることができた。

 

だがその時はちょうどお盆の時で、昼間は暑く、夜はよく冷えた。

外で寝たらわかる。たとえ暑くても、全く動かないでいると寒くなってくるのだ。

冬でもホームレスの人がなぜ長袖を着ているのか、その時理解できた。

 

全く動かないということは体温が上がらない。

だから寒くて仕方ないのだ。

 

自分はこれからどうなるのだろう。でもどうしても実家にはもう戻りたくない。 

それでも財布の中にはもうお金も少なくなってきた。

どうしようもない焦りだけが込み上げてきた。

 

そして名古屋に来て10日ほど、僕はもうこの街を見限ることにした。

 

そして決意した。

「東京に行こう。名古屋からならバスで行ける。東京で何も仕事が見つからなければ、高層ビルから飛び降りよう。それでもあの地獄には戻るよりマシだ」

 

そして僕は、名古屋のネットカフェで東京行きの夜行バスのチケットを取ったのだ。

 

だが不思議と、バス乗り場に向かう足取りは軽かった。