Rhynie Chert-ライニーチャート-

それでもこの世界は美しい

シナモンロールと相対性理論

重力がなくては我々は生きることができない。

 

重力が我々が住んでいる世界のすべての元になっている。

だからこそ、それについて人類が知っていること全てを知りたい。

そんな望みを抱いた物理学徒である私が愛して止まない蔵書たちが並ぶのがこの本棚だ。

 

だがこの本棚はシェアハウスという、空間を共有したスペースの本棚であるから、ここは正確には私の本棚ではなく、あくまでわたしが借りているスペースでもある。

将来は一軒家を買い、仕事部屋の壁一面に大きな本棚を置き、そこに100冊ほどの物理学書・数学書を保管したいと考えているが、今はまだそれほどの余裕もないのでこの小さなスペースが、今の私の持てる全てだ。

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だが共有スペース故に、私の書籍たちの前にシナモンロールなるぬいぐるみが置かれるのである。

だがこういうことはここに住んでいるからこそ経験しうることだ。

一人で棚を作っていては、こういった自分の想像の範囲外の事態は起きない。

自分の外から何かがやってくる時、それは自分一人では生み出せないものがやってきたということ。もちろんそれを受け取る受け取らないは選択の自由であるが。

にしてもシナモンロールmeets量子力学ランダウ先生もびっくりしたことだろう。これらのコンテンツを支持している層が全然違うので異次元のコラボレーションである。

 

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だが最近、この人形が大きなインスピレーションになった。

というのは左と右のシナモンロールは4次元ミンコフスキー時空では同じ大きさであると考えることができるということだ。
左の大きいシナモンロール(CR1)は静止していて、右のシナモンロール(CR2)は光速に近い等速度で直進して移動しているから進行方向に収縮していると考えられる。
つまり我々には認識できないだけでCR2は光速に近い速度で運動しているのである。空間と時間のローレンツ収縮によりこの小さいCR2の方が寿命も長いのだ...!

 

というアイデアを得て、私はさらにもう一つ考えついた。

時間や空間は運動というものを通してその形を変える。

 

では人の気持ちや思いはどこへいくのかとふと思ったのだ。

例えば愛や憎しみといった感情は時間や空間を超えるのだとしたら、それは目に見える物質よりも奇妙なことになる。

 

熱力学の世界ではエントロピーが増大する方向を時間の矢と決めた。

エントロピー増大の法則にも、相対論も超えていくのは人間の感情ではないかと思えるのだ。

 

例えば、このシナモンロールを私の本棚に置いた人の意思は直接は私に感じることはない。だがそれが置かれているということを私が視覚として認識したということから、その人の意思が物質を媒介して伝わったとも考えられる。(空間の期待で光が歪むのと同じで、媒質によって意思も歪められるが。ここでの歪むとは、発信者の意図の精度100%で伝わらないということ。それは言葉という媒体を使っても同じ。)

 

意思は時間や空間を媒介してどこまででもいけるのだろう。

ちなみに4次元モンコフスキー時空における世界線の線素は座標変換によらず不変であるので、意思が時間や空間を媒介できるなら、一瞬にして世界線を媒介して宇宙の果てまで行けるのかなんて考えたりもした。

 

人が誰かを思うとき、思われる人はただの観測者で、自分の知らない世界で時間がゆっくり流れていることを知らない。感情がすれ違いそうになった時、違う方向を向いていたベクトルの符号も計量テンソルが合わせてくれる。そして一つの世界線を作れる。これが共変と反変のベクトルだ。

世界にはそんなベクトルで満ち溢れていることに我々が気づけたなら、我々は適切なテンソルを作る努力をすることが重要なのだ。

 

そういうことをふと考えるきっかけになっただけ、このシナモンロールには価値があると言えるのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

言葉の持つ力

世界は言葉でできていると言って過言ではない。

 

人は一日一日と成長していっていると思う。

生まれたばかりの赤子が、たくましい男や美しい女性になっていく過程も時間が作っていく。

 

全ては一日1日の積み重ねでありその中で人は言葉というものを通して成長していく。

成長しまた新たに言葉を通して世界を知る。

言葉は世界だ。

そして言葉の歴史が人類の歴史だ。

 

自然現象も数式という言葉を通して理解される。

詩人や小説家の言葉は時に人を楽しませることもあれば感動させることもある。

 

だが世の中は良い面だけで成立しているわけではないことに気づかなければならない。

必ず悪い面もあり、特に人の悪意や憎しみを媒介させ、命すらも奪うかもしれないのが言葉であるという側面にも目を向けなければならない。

 

言葉には言霊があると言われる。

僕のいう言霊とは、心理学的にいうところのメタ認知のようなもので、結局相手が言葉という媒体をとおしてどのような感情を放出してくるのか、ということに等しい。

 

そして時に人は、本心では思ってもないことを言葉にすることもある。

良いなんてこれっぽちも思わないものを良いものだと思い込ませて、買わせて紹介料をもらうとか。

僕はそういうものを間違った言葉とか、悪い言葉と呼んでいる。

今となっては世界は正しい言葉ではなく、間違った言葉の方が溢れているのではないかとすら思ってしまう。

 

一昔前なら少しテレビをつけてみれば、本当に使い心地が良いのかも悪いのかもわからない商品を芸能人がそれがさも良いものであるかのように購買意欲を煽り、スポンサーがそこに多額のお金を投じる。

そしてそのお金というのは、そうやって購買意欲を煽られた、言葉の真意に気づけない人々がその商品を買うことによって生まれた利潤なのだ。

 

僕は、常に人は正しい道に進むべきだと思うし、社会全体が人間を正しい道に導かなければならないと思う。

そしてそのために必要なのは本当の言葉なのだ。

本当の言葉とは、決して綺麗事でなく、嘘や偽りでもなく、世界を良くしようとする言葉のことである。

では世界にとって良いとは何か。

それは人類が滅亡することなく、地球の資源も必要以上に破壊せずに、地球を共生して、人類が発達するということが、それが地球にとっても良いという状態にあることである。

 

それは人間を中心とした傲慢な考えと言われるかも知れない。

だが傲慢であることは悪いと言っているわけではない。

その傲慢さえも、良い傲慢と悪い傲慢があり、人類の一部が得をして他の人間が道具として利用されるのは悪い傲慢であるし、人類にとって良くても地球を滅亡させてしまうならそれも間違いなく悪い傲慢だ。

 

新しく生まれた赤子が、地球を守り、人類を守るという考えを当たり前にできて、育ち、社会がそれを応援するような状況を作り出せるには、世界から嘘の言葉を取り除いていくしかないと思う。

 

なんだか時々無性に許せなくなる。

この世界に嘘が満ち溢れていることが。

 

人を救う嘘もあるとか、そんな言い訳じみたくだらないもう弁を聞く気は全くないし、言いたいやつは勝手に言ってろと思う。

そういうことしか言ってこない奴らは所詮、一ミリも人類の未来など考えてもいないと僕は思ってしまうのだ。

 

今、何か世界に問題が存在するとして、その問題に対して解決しようとする人をくだらない猛弁で茶化すなと言いたいのだ。

 

世界はやはり嘘だらけだ。

だがそのベールを壊した先に、きっと美しい世界が見えてくるのだと思う。

 

それでも世界は美しい

 

 

 

 

 

僕がシェアハウスに住み始めた理由。

京王線明大前駅から徒歩圏内、ひっそりとした住宅街の中に2階建ての一軒家がある。1階はリビング、トイレ、キッチン、風呂があり、リビングの隣に作られた壁には3畳ほどの部屋が2つ。2階には部屋が4つとトイレ、洗面台がある。

 

僕がここにきてもう一年。

ちょうど2020年の8月に僕はこの家にやってきた。

 

シェアハウスなんて正常な思考のやつが住むところじゃあ決してない。

そう思っていた。

だが一年前の僕には選択肢がなかった。

昨年居酒屋の社員を辞めて一旦五年ぶりに実家に帰省してみたはいいものの、やはり折り合いなどうまくいかず3ヶ月くらいで出て行って板橋の友人の家に転がり込んだ。

だがその友人の家も解約が決まっていて、東京について早々に僕は次の住処を探さなければならなかったのだ。

 

俺はただ静かに本を読んだり勉強したりして、そんなに派手じゃなくてひっそりと生きていきたいだけなのに、人生の試練は次から次へと俺に降りかかってくる。

 

そんな中だった。

当時友人の家には本棚があり、そこにたくさんの本が収集されていて、たまたまある一冊の本が目に見えた。

本の名前は「金持ち父さん、貧乏父さん」

現代を生きる人々なら名前くらいは聞いた事があるだろう。

いわゆる自己啓発本の代名詞みたいなものだ。

くだらない本だと思う、こういう信者がありがたがるような本は。

 

だが読んでみると、割と面白かった。

固い仕事をしている筆者の実の父を貧乏父さん、近所の友人の会社経営をしているお父さんを金持ち父さんと読んで二人を対比しながら論を展開していく内容だった。

こういう本を書くやつの手口として、大抵そのお父さんなんてのはフィクションで仮想的な存在なのだと思う、というか勝手に俺はそういうもんだと考えている。

 

だけど俺は貧乏父さんの堅実な生き方の方に惹かれた。

むしろ俺はただ堅実にしっかりと生きたいだけなのになぜいつもいつもこんなギリギリの生活を強いられるのだと、半分自分の運命を呪おうともした。

だが、この本を読んでいて、何だか改めて自分の運命に抗ってやろうという気持ちがふつふつと沸き起こってきたのだ。

 

これは投資を勧める本であるが、決して俺はこの本を読んで投資を始めようとは思わなかった。むしろ大切なのは知識であると悟ったのだ。

この本を書いているこいつは確かに今となっては財を気づいたかもしれない、だが恐らく彼が財を為したのはその投資技術ではなく、こうやってただ何となく人を説得させて自分のセミナーなどに参加させてお金を巻き上げる事のおかげなのだろう。

クズめと思う。だがそれ以上にこいつにはそういう下衆なこずるい知恵があるのだ。それは一種の才能かもしれない。そしてその手段としてこいつは知識を使う。何となく知識を組み立ててそれっぽく見せて説得力を持たせてリテラシーのない人間から搾取していく。

だが逆に俺は思った。こいつは知識を悪い方向に使っているが、それもまた知識の使いようだ。

なら俺は、自分自身が静かにひっそりと生きることに知識を使いたいと思い、そのために知識を得たいと思った。つまり知らないということは搾取されることであり、知るということは自分を守る武器にもなる。

こういうところでも逆転の発想で自分の勉強意欲を高めるということだ。

 

そして俺はその本をきっかけに自分の残り少ない残高の使い道を考えることになる。

手元には20万くらいあったと思う。ここで普通に1Kの部屋など借りたら今の財産を全て失う。

例えば敷金や礼金というものを払ったとして、その支払ったお金をまた稼いで回収するのに一体どれだけの労働力のロスがあろうか。

その時間で自分は勉強することもできる。

そうなると重要なのは投資家でも何でもない俺にとって時間=お金、つまりTime is moneyという言葉が浮かんでくる。

が、そのお金で大学の試験に落ちたらそれ以上の損失になると踏んだ僕は決心をする。

 

「屋根さえあれば、それ以上贅沢は言うな」

 

そうして頭にふとシェアハウスという考えが浮かぶ。

よくよく考えれば、僕にとって本当に一人でくらしていたのは放浪中の16歳の時、そして東京にきて江戸川区に住んでいた頃のたった4ヶ月の話だ。

あとは誰かしら家にいるような環境で生活していた。

 

つまり俺は、一人が好きでありながら半分以上誰かと空間をシェアしながら生きてきた人間なわけで 、共有生活というやつにきっとある程度耐性があるのだろう。

それでも、一人の時間を少しは確保できる環境でなければ僕には絶対に無理な話だが。

 

それでも初期費用に30万払ったとして月に2万円づつ貯金をするなら、15ヶ月の損失を僕はする。

それはどうしても避けねばならない。

そこでシェアハウスなら初期費用がかからないところがほとんどだと知り、スマートホンを駆使していろんなシェアハウスを探した。

 

とりあえず、飯田橋付近と下北沢付近で探した。

受験予定の大学が2つあって、その大学から近かったからだ。

 

4件くらいみた気がする。

正直、ピンとくるところはなかった。

というか人生において本当の意味でピンとくる瞬間て本当は存在しないのかもしれない。

何か、結局自分に無理やり思い込ませているような気がするのだ。

それが「自分に必要」だと。

それは自身に対する洗脳とも呼べる。

 

そして内見を済ませた僕は一度板橋の友人の家に戻り、必死こいて考えた。

どんな手段を取るべきなのか。

自分はどこに行くべきなのか。

どこも正解じゃないし、どこも正解と考えられる。

多すぎる選択肢に迷わざるを得なかった。

 

下北沢には少ない家賃でベッドしかないぼろ小屋もあったし、少々値は貼るがキレイめでシャワー室や冷蔵庫もいくつかありキッチンも広い家もあった。

だが最後に決めたのはこの明大前の家だった。

 

下北沢の家を内見したとき、そこの案内をしてくれた人が明大前にも家があるけどどうする?と提案してきたのだ。

あまり乗り気ではなかったがせっかくだしと思い腰を上げてその提案に乗ることにした。

駅からの道の距離感、そしてそこまでの景色、全てがピンと来なかった。

家を見た時、とてもここに住もうなんて思いもしなかった。

 

だが今自分が住むことになる部屋を見た時、ここにしようと思った。

理由は多々一つ。

そこに机を椅子があった。

 

3畳くらいのスペースにベッドとクローゼットと机が配置されている。間取りは完全に独房のようだが、それでも自分にとっては十分満足だった。

 

なぜなら屋根のないところで生活するよりマシだからだ。

それに比べたら十分な環境だと思った。

ここで勉強して僕は自分の目標を達成しようと、そう思えた。

 

内見から2日後、案内してくれた人にメールを送る。

そして何の滞りもなくスムーズに手続きは終わる。

 

今まで自分が住んだことも、住もうなんて思ったこともないこの場所で、僕の新たな生活はスタートすることとなった。

 

そして僕がこの一年で、この家でどんな生活を送ってきたのか。

それは次の記事で綴っていくことにしよう。

 

今日はもう寝ることにする。

おやすみ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それでも俺はミルクティーを飲まない。

俺は甘いものが大好きだ。

16歳の頃なんかはアイスの箱を2つ買って1日で食い切ったこともあったし、1日でコーラ2L全部飲み切ったこともあった。

仕事中の昼休みにアイス一箱食べ切るなんてのも当たり前だった。

よく食べていたのは以下だ。早稲田の近くの業務スーパーで一箱200円ほどで売っていたので、大量に買って冷凍庫にストックしていた。

 

www.akagi.com

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だが俺は一年前そんな日々に幕を下ろす決意をした。

大学に合格するという目標を立てた時、自分に誓約を立てた。

大学に合格するまでアイスは食わないと。

そして大学に合格した今もアイスは全く口にしていないし、今後も口にすることはないだろう。

 

筋トレを始めて早三年ほど。

そして僕は、自分の目標のため、大好きだったお菓子、アイス、ジュースといった砂糖がたっぷり入ったものを控えることにした。

一年ほど全くその類のものを口にしなかったこともある。

 

ミルクティーなんて言語道断。

砂糖がたっぷり入っているからだ。

 

そうすると、バイトでレジをしていてジュースやお菓子を持ってくる人々を見ると、その人たちの顔が甘ったれた顔に見えてくる。というか本当に大抵何かに甘ったれたような顔をしている。あいつらは甘ちゃんだ。

そう。

甘いものを食べることは逃げだ。

そして目の前の現実からも甘いものを食べて誤魔化して逃げているに過ぎない。

だからそれを控えている僕こそが最も偉大なのだと。

そう考えている自分もいる。

 

だがその反面、どうしても無性に飲みたくなる事がある。

特に控え初めの時は反動がすごかった。

そんな時は甘いものじゃなくてあえて普通にご飯を食べた。

結局お米も糖だからね。

腹が満足すると、もうそれ以上食べようとは思わなくなる。

お菓子を食べたいきも気づいたらなくなっている。

 

そんなふうにしていた僕も、最近クッキーなどをもらうようになってから

せっかくだしということで食べたりしていて、気づいたらその美味しさにどっぷりハマってしまっていた。

ovgo.thebase.in

市販のクッキーは乳化剤などが入っていて口にする気にもならないが、オーガニックということで、食べてみるとびっくりするくらいに美味しいのだ。(別に宣伝ではありません。お金をもらったりもしていません。

 

話が逸れたが、結局僕もこういう甘ったれたものを食べ始めることによって、最近不屈の心も揺らいできた気がする。

 

とにかくいろんな努力が億劫になり、何だか甘えてもいい現実に甘えたくなってしまう。だからやはり、魔物なのだと思う。甘いものというのは。

 

そして体が甘いものを受け入れることで無性に大好きだったミルクティーが飲みたくなるのだ。

東洋大学に通っていた頃、よく飲んでいた。

もう今は無くなってしまったピカソ早稲田店で大量にミルクティーやお菓子、コーラを買い込み気持ち悪くなるまで4畳半のボロアパートで堪能する。

我ながらに堕落した日々であった。

と同時にそれもなかなかに幸せだったとも思う。

 

この世界にとって何が真実で、何が嘘かなんてわからない。

ただ僕は誰かから聞いた砂糖は毒だという言葉を信じて、今まで貫いてやってきた。

それでも、自分がミルクティーを我慢している時、それは真実なのだろうかと疑っている自分がいるのも事実。

 

だがそれでも俺はミルクティーを飲まない。

自分の言葉は守りたい。

そして俺は自分にとって大切な人を守れる男になりたい。

ただそれだけだ。

 

 

 

【16歳の家出編】東京初心者その1

少年は名古屋での回想を終え、ままならない意識の中でバスに揺られていた。

夜行バスはもう人生で何度も乗っているが、毎度乗り心地がよくないとも思う。

 

それでもフィリピンで乗ったバスと比べると、日本のバスは治安がいい。

バスに乗っていて基本的にものを盗まれる心配をしなくていい。

おまけに携帯電話の充電もできる。

そして何より乗客の表情が良い。生死をかけたような切羽詰まる表情の乗客に出くわすことは日本ではほとんどない。

 

日本でいることに何よりも安心感がある。

フィリピンのマニラに船で着いた時、到底野宿しようなんて気になれなかった。常に命の危険が迫っているようなものだ。誰かが常に見ている。そして誰かが荷物ごとかっさろうとしている気配を感じずにはいられなかったらだ。

 

名古屋に失望した少年は心機一転、東京を目指す。徳島から北上を続け、ついに東京に辿り着く。距離的には長い移動だった。徳島から神戸、神戸から在来線で富山に向かい、富山から名古屋、名古屋から東京だ。少年の旅が始まってもう2ヶ月が経とうとしていた。

少年の心中は不安でいっぱいだった。自分がこれからどうなるか。だがマニラでの壮絶な景色を見てから、日本で野宿することに躊躇いがなかった。

この国なら大丈夫という安心感があった。なぜなら物乞いをする子供が全くいない。

それがこの国の治安の良さを表している。

「子供は子供らしく」

賛否両論あるこの言葉さえ、そもそも子供を養えるだけの経済力を抱える文化だからこそ存在する言葉であるとも思う。

 

疲れ切っていた少年はもう回想に耽ることをやめた。

とにかくもう寝てしまおう。そして朝、東京に着いた時にまたこれからのことを考えよう。

ふと窓を見た。真っ暗で何も見えなかった。

そして少年の意識は闇に沈んでいった。

 

目が覚めた時、バスはまもなく新宿ですとアナウンスが流れていた。

心地よい軽快な音楽が流れる。

不安もありながら少し少年の心は踊る。

「ここで、ここで俺は新しい人生を始めるんだ。他の誰にも邪魔されない自分だけの人生を」

そしてバスは到着する。

 

2014年8月15日午前5時半、新宿駅西口バス停にて少年は降り立つ。

新宿の空気は思っていたより澄み渡っていた。これが歌舞伎町の付近であれば違っていたかもしれない。

西口の方がまだ綺麗なのが新宿。だが当時そんな分別はない。

ただ徳島では見たこともないビル群の立ち並ぶ景色に最初は圧倒された。

 

だがいざ東京についてみると、どこに向かえば良いかわからない。

もちろん知り合いは一人もいない。

日本の首都だというのに、僕の親族も親戚も、友人も一人もここにいない。

いったい、自分はなんて閉塞的な世界にいたんだと思ってしまう。

だがむしろ好都合。たった一人から始めれば良いのだから。

 

人口1千万人以上の大都市。ここから僕の人生を始めよう。

 

まず向かう場所を考えることにした。

中学三年の頃、友人たちと1泊2日で秋葉原に行ったことがあった。

山手線に乗って秋葉原に向かう。

知っている線は山手線だけ。路線図は複雑すぎて見る気にならなかった。

秋葉原に着く。

 

改札に切符を入れて、切符を出るときに取り出す。

自動改札は何度見ても革新的で、なんだか未来にタイムスリップでもした気になってしまう。そして圧倒的に感じる人の量。沢山の人が押し寄せるように闊歩する。

なんだかスーツを着ているサラリーマン全員がかっこよく見えるし、私服の人々も先進的で洗練されているように見える。

田舎者の少年の目には全てがキラキラと輝いて見えた。

なんとしてでもこの街に移住するんだ。だから仕事を探すんだ。

少年は自ら言い聞かせた。ここになら、他で見つからなかったどんなものも手に入る気がした。

そして後に少年は色んなものを掴み取っていくことになる。もちろんそれ以上に多くも失うことになるが。

だがそれは少し後の話。ここはただの序章に過ぎない。

 

まずは駅前のファミリーマートに入る。

まずはフリーペーパーの求人雑誌を手に取る。雑誌の名前はタウンワーク

少年はまだスマートホンを持っていない。ちなみにこの頃はまだiPhone5sが最新機種だった。

インターネットを使用するなら近くのネットカフェに行かねばならないが、できるだけお金は使いたくなかった。

そこで頼れるのはアナログの求人の掲示やこういったところに無料で置いてある雑誌などであった。

 

雑誌を手に取りコンビニの前にある円状に組まれたパイプの上にもたれかかる。

いろんな求人がある。

だが逆に多すぎる選択肢は少年を迷わせた。試しにコンビニなどで働いてみようとも思ったが、高校生可と書かれているところがほとんどなく、書かれているところがあったとしても今の自分の状況を説明するのが面倒であった。

そう。いわゆるこの日本という国の常識では当たり前に、16歳は高校に通っているのだ。

 

今は世間は夏休み。なのになぜかこの街では制服姿の学生も見かける。

きっと地方とは違って何か通学の仕組みが違うのかもしれないなんて考えながら、少し学生服の彼らを羨ましいとも思う自分がいた。

学校など監獄だ。俺は自らの力で鳥籠の檻を開け羽ばたいた一羽のたくましき鳥なのだと、そうは思っても人間というのはないものねだりで、ただ学校と家を往復することだけが許される彼らを羨ましくも思った。

 

ほんの少し前まで自分も制服を着ていた。だけど自分は制服を着るのが嫌だった。人に決められた服を着ることほど、自分にとって屈辱的なことはなかった。

なのに、今となってはほんの2ヶ月でここまで周りと違ってしまった自分が少し不安になってしまうのだ。

自分がこれから向かおうとしている先は、正解なのかと。

そんな葛藤に追われてしまう。制服姿の同い年の彼らを見るたびに。

 

そんな事が頭をよぎりながら、一刻も早く仕事を見つけなければならない彼にとってはなんとかアテになりそうなところを探すのが最優先。タウンワークのページをとにかくめくる。めくる。

できれば社宅か寮があるところが良かった。

そこでいくらか電話をかけるが、03から始まる固定回線の電話は全てお盆でつながらなかった。

そこで彼の目に止まったのは江戸川区にある建築会社だった。そこには090で始まる携帯電話の番号が書かれていて、ここならつながると思ったのだ。

そして電話をかける。

1,2,3とコールが増えるたびに、出てくれという悲痛の叫びが内側から湧き上がってくる。

そして何コールかした後、電話は繋がったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

咲き誇る花のように

世の中にはいろんな人がいる。

 

世界の人口は現在78億人。

 

1人1秒ずつ出会っても、一生涯の人生では全員には出会えない。

だから世の中にどういう人がいるのかって、案外知ることは難しい。

 

なのに人は自分の身の回りの世界で常識を作る。

世界の全てをみたわけでは無いのに、自分の知っている偏狭な世界だけを世界の全てだと無意識に思い込んでしまう。

 

その偏狭な世界がその人にとって幸せなものならそのままでいいのかもしれない。

世界の悲劇も何もかも知らないで幸せに生きれるのなら、きっとそれがいいのだろう。

 

でも多くの場合そうなのだろうか。

その偏狭な枠の中で世間や他人の価値観に振り回され苦しんだり傷ついている人が多いように感じるのは僕の気のせいだろうか。

 

それとはまた全く別で、やりたいことも何もなくて虚無に生きている人も多いのが今の世の中なのかもしれない。

 

この日本という国は豊かだ。

豊かになった。世界でもトップレベルに。

でもそれによって国は一見の豊かさを得るために多くの闇も生んでしまったように感じる。

 

幼い頃、路端に綺麗なたんぽぽが咲いているのをみた事がある。

でもその周りはすごく汚い溝川だった。

僕の家の近くはドブだらけで異臭が立ち込める場所が多かった。

だけどそれでも、太陽に向かって花は伸びる。

 

そこに太陽があるかぎり。

咲くことを諦めなければ、きっと花を咲かすことはできるのだろう。

 

華やかな世界の裏側には必ずドブがある。綺麗に見せるためには汚いものを捨てなければならない。ならその捨て場所が必要になる。

捨て場所に選ばれた場所はそこでどんどん汚くなる。

でもそんな場所でも花は咲く。

爆弾が落とされて焼け野原になった場所も、時間が経てばまたそこに生命は生まれる。

 

この宇宙にも人類がまだみぬ惑星がたくさんある。

その中にはきっと、地球のような惑星があって、地球がなくなったとしても宇宙のどこかにはまたどこかで新たな生命は生まれるだろう。

 

生命が終わる瞬間などない。

終わるように見えても、また違うどこかで新たな生命が生まれるのだ。

 

このブログを読んでくれているあなたも、花だ。

例えあなたがどんな状況にいたとしても、命の花は必ず咲く。

そして次の生命にバトンを渡していく。

 

この世界が絶望だとしても

必ずその中に希望はある。

だから太陽に向かって堂々と手を伸ばせばいい。

咲き誇る花のように。

 

 

【16歳の家出編①】名古屋という街での邂逅

2014年8月14日16歳の少年は深夜2時のバスの中で想いを馳せていた。

 

この世界はなぜ存在して、なぜ自分は生まれて、そして自分は今どこに向かっているんだろうかと。

運命というものがあるなら、自分がこの先どこに向かうかそれはもうすでに超自然的な誰かの手の内なんだろう。

でも、だとしたら尚更、俺はそこに逆らいたい。

人の生きる道を誰かが決めるというなら、それは他の誰でもない。自分自身が決めねばならないと。自分以外の者に自分の進む道を決められてはならないと。

 

昨日、母親から電話があった。内容は「今どこにいる?帰ってこい。」というものであった。帰るつもりなど毛頭ない。

今向かっている新たな地で、新しい生活の基盤を見つけられなければ、俺はその街とともに命を投げ出してもいい覚悟だ。

だから運命よ、いくらでもかかってこい。

お前が俺を逆らわせないなら、この命、投げ出してでも俺は自由を手に入れる。

 

バスは名古屋から東京に向かっていた。

名古屋には2週間いたが何も得られるものはなかった。

世の中を変えようと行動している少年を讃えてくれるような小説のような世界はそこにはなく、毎日数字と生産性のことしか考えない社会の、人間を道具としてしか見ない社会の縮図であった。名古屋はそんな場所だった。16歳の身元不明のよくわからない少年をただのドブ沿いのゴミのように見ていた大人たちの目を覚えている。

 

名古屋で少年が交わした会話は以下のようなものだ。

 

名古屋にいた時、ネットカフェに向かうエレベーターの中で「観光ですか?」と10代後半の大学生バイトのようなエプロン姿の従業員に声をかけられた。

どう答えたら良いかわからなかったのでとりあえず「まぁ、そんなところです」とだけ答えておいた。

それ以上会話が続くことはなかった。

日本人は割と人見知りの多い民族性だと思う。世話好きなご老人でもない限り、このご時世そうそう普通にしていて声をかけられることなんてない。

女性なら繁華街で所謂ナンパというものに遭遇することもあるかもしれない。

だが男が一人で外を歩いていて、悪趣味な職業のスカウトか飲食店の客引き以外に声をかけられるなんて滅多にない。

この人はどんな意図があって自分に声をかけてきたのか、少年は不思議に思った。

だがその答えを知ることは永遠にないのだろう。

なぜならきっと、もう2度とこの人に会うことはないのだろうから。

 

またある時、ビックカメラの休憩ソファで仮眠を取ろうとしていた時、隣に異臭のする初老の男が座ってきた。その男の風貌はヨレヨレのシャツに短パン、何が入っているかよくわからない小さな紙袋を片手に持ち、髪の毛は黒髪と白髪が同じくらい混ざっており、無造作に肩の辺りまで伸びていた。

なんとなく、この男が声をかけてくる気がした。メタ認知というやつだ。言葉ではなく、何かそういう雰囲気を感じ取る。

男は少年に案の定声をかけた。

「今日も人がいっぱいいるのう」

一見独り言のように聞こえなくもない。だが、声の大きさ、トーンが確実に少年に何か示唆したいかのような雰囲気を醸し出している。普段なら立ち去るところだが、もう行くところも引き返すところもない少年にとって、この男と話すことになんの身の危険も感じなかった。

「そうですね。人を観察するのが好きなんですか」

少年は返事をしていた。

すると初老の男は少し嬉しげに会話を始める。

「俺はゲームを作る仕事をしていてな。新しい情報を得るためにこういうところで人を見ながら流行りのものをリサーチしている。人を観察するのは面白い。例えば向こうに二人組の女の子がいるだろう。あの子たちは話しかけても大丈夫だ。お茶に誘えばついてきてくれるね」

「あぁ、そうですか」

気の無い相槌をうった。この人は何が言いたいのだろうか。それにどう考えてもこの男の言葉は信用できない。そんな感覚がした。この男の会話に混じった自分を少し後悔した。

「どんな女の子でも落とす方法を教えてあげようか。今なら千円で教えてやるぞ」

辟易とするこちらをよそ眼にまだ男は話を続けている。

この街は変なのかもしれない。そんなことを思いながら返事をした。

「いえ、そういうのには興味がないので大丈夫です。」

「そうかい。またなんかあったら声かけてくれよ。じゃあ俺はこれから風呂入ってねるとしよう」

そういいながら男は立ち去っていった。

立ち去りぎわ、先ほど指差していた女性二人組の前を男が通ると、露骨に嫌そうな顔をする女性たちの顔が見えた。おそらく男から漂う異臭のせいだろう。

どう考えても、あの男が女性に声をかけてうまく行くなんて風には到底思えなかった。

だが自分ももう3日ほど風呂に入っていない。

そういう光景を見て、少年は無性に風呂に入りたくなった。

だが手元のお金は限られている。もう人の目なんて気にしていられない。

少年にとって最も必要なことは、女の子をナンパする方法を知ることでもなければ、シャワーを浴びることでもなければ、この絶望的な今という状況から脱出するという手段を得ることのみだった。どうやってこの状態から生き残るか、それが最優先事項。

 

最後はハローワークでの話。

名古屋に来て5日ほど経った頃、少年は焦り始めていた。ネットや外の掲示で求人に片っ端から問い合わせをするが、身元のわからない未成年など雇えないとどこも断られ、いまだに仕事が決まらなかったからだ。もちろん住むところもない、

 

行く先はどこにもなかった。寮を貸してくれて、未成年でも匿って働かせてくれそうなところなんてアウトローな仕事しか思いつかない。

それでもいい気がした。それも死ぬことを思えばマシなのかもしれない。

だけどこんな状況でもそれはしたくなかった。自分のために、最初から分かって誰かを傷つけるなんてことをしたくなかった。

 

まずは正攻法で。そう思い少年は重い足取りで職安いわゆるハローワークに向かった。まだ朝の9時でもう開場前から多くの人が入り口の近くで並んでいた。

入り口近くでたむろっている人たちの風貌や雰囲気は、お世辞にもいいと言えるようなものではなかった。

明らかに肥え切って、お腹で自分の足が見えないような中年女性、何日も洗ってないようなシワと汚れだらけでキャップを被った初老の男性、目が泳いでどこを見ているかわからない男性。

だがそういう自分もはたから見れば十分にその人たちと同じような状況だ。

なんだかこの国の負の側面を見ている気がした。16歳の少年にとって日本という国の負の側面をまじまじと見せつけられ、そして自分もその輪の中に十分入りうるというこの状況。行き場がなく、ただ職安をうろうろし、昼間は公園で時間を潰す。

いったいなんのために生きているのだろう。そんなことすら考えてしまう。

自分は何をするためにここに来たんだろうと。

 

学校と家を往復するだけでは決して感じることのなかった感覚。

同情や憐れみなんかじゃない。むしろそういう感情は人を見下す感情に似ているのかもしれないと初めて思った。

いざ自分も、もうどうしようもない状況に陥ると、むしろなんとかその日を生き続けていられる路上の人々に、尊敬の念すら感じてしまう。

自分がいかに甘ったれた環境で生活させてもらえていたのか痛感した。

 

住むところがない、明日食べるものがない。こんな状況になりたくないから、親は子供に教育を受けさせ経歴に箔を付けさせようとする。そうやって最低限の人間的生活を送って欲しいからなのだと。

初めて親の気持ちも理解できた。

だからと言って

引き返す気もなかった。新しい視点は得られた。だからと言って自分が引いたら終わりだ。ここで引き返したら、もう永遠に自由は手に入らないと思った。

 

少年は前を向き、職安の門をぐぐった。10時になり人が一斉に入りだす。

建物の中の階段を突き進む。生まれて初めてくる場所。

パソコンを操作し、いくらか自分が働きたい候補先の求人を印刷し、受付に持っていく。つい最近までPCのプログラミングを勉強していた少年は、エンジニア系の求人を探して受付に行く。もちろん学歴欄は不問しか選べない。

いわゆる頭脳労働というやつはほとんどが大卒が条件でそれがなければ応募すらすることができない。

自分は応募もできない。

16歳にして初めて世間の厳しさを知ったような気がした。

僕のいた小さな世界のそれまでの大人は子供に勝手な振る舞いをすることはあれど、この世間のようにまだ出会っていない人間を切り捨てるようなことはしなかった。

また違う憤りを感じる。

学歴なんかでこの俺の何がわかるんだと。

だがそうも言ってられない。この状況に対して自分ができること。

それはどこか一つでもいいから面接までたどり着くこと。

 

番号札を取り、求人の紙を持って自分の名前が呼ばれるのを待つ。

不安でいっぱいだった。何かずっと自分では思っても見なかった現実の厳しさだけを叩きつけられているこの感覚。誰かにこの不安を話したかった。

だが僕の理解者はどこにもいない。少なくともこの折りたたみのガラケーの連絡先の中には。

 

そんなことを思っていると、自分の番号が呼ばれる。

受付に行く。僕の担当は中年の細身の女性だった。

初めてまともな人と会話している気がした。

孤独感を感じていた僕は、とりあえず手短に今の状況と仕事を探している経緯を伝えた。

すると彼女は言う。

「若いのになかなか壮絶な経験をしているね。君は孫正義にでもなるのかな」

なんてことを言われた。

なんだか初めて自分の行動を評価してもらえたような気がした。

自分が勝手に決めたことではあったけど、少し嬉しくも感じた。

 

そこから履歴書の書き方などをおそわり、2件応募した。色々と親身にサポートをしてくれた。面接にはスーツ必須と書いてあったが、そんなものは持ち合わせていなかった。面接はサンダルで行った。

 

面接会場の道中、信号で立ち止まらないといけない場所があった。だが幸いにもその時間帯は交通量が少なく、車は全く走っていなかった。

だから少年はその信号を渡った。信号の色は赤色だった。

渡っている途中で、信号を渡った先の目の前に警官がいるのに気付く。こんな近くで警官がいるのに気づかなかったとは、相当視野が狭くなっているようだ。

するとその警官は少年に指をさし、重々しい声で注意する。

「信号、無視しちゃダメだよ」

「すみません」

少年は弱々しく返事をした。

自分が未成年で家出をしていることが身元を調べられてわかったら、実家に送り返されるかもしれない、そんな不安がよぎり、なんとか穏便にことを済まさなければならなかった。怪しまれてはならない。

なんとかその警官のそばから離れたかった。

少年は感情を押し殺し、返事をすると警官の前から消えた。

 

だが確実にその時、憤りのような感情も渦巻いていた。

「お前たち警官は信号を守らない奴にはケチをつける。だがそれじゃあなんであんたたちがいて世の中の犯罪は無くならない?あんたたちのいないところで世界をめちゃくちゃにしてる奴らがいて、なんでそんなに目先の小さなことには過剰に反応できるんだ」

と。

もう少年の脳内は整理しきれない感情で満ち溢れていた。

 

面接会場のオフィスに行くと、受付の若い細身の女性に履歴書を渡して面接に来たことを伝える。女性はかなり痩せこけていて、服の隙間から下着が見えているのに気にもとめていないようだった。

なんとなく違和感を感じた。

自分の想像していたものと違う。

決して働くことを楽しいなんて思ってもない無機質な返答。

人間が冷たい、血の流れていないロボットのように見える。

どこに行っても行き交う人が僕の存在に気づかない。

素通りしていく。

世界でたった一人。

孤独が恐ろしく感じる。

このまま死んでしまいたいとも思った。

 

それでもこの孤独と戦い続けなければならない。

なんとか気を持ち直し、案内された部屋で面接官が来るのをまつ。

その間冷たいお茶が出されたが、何の味かはわからない。

それでも希望を持ち、うまくいくことを考え、面接官を待つ。

 

面接官が来る。少し髪の毛の薄い物腰柔らかな男性だった。

他愛のない話をする。

自分の年齢とエンジニアを志望する理由を答える。

面接は淡々と進む。

少し僕の年齢を聞いて驚いている感じだったが、徐々に面接官の態度が厳しくなってきたような気がする。

自分の感覚ではうまく行っているような気がした。

そして途中から口頭試問が始まる。

「クラスの概念について説明してください」

うまくは答えられなかった。以前確実にテキストで読んだが自分ではどうにもできなかった。

 

そして結果はお祈りの通知だった。

面接というシステムに違和感を感じる。

実際に働いても見てないのに自分の何がわかるというんだと。

そんなことを思いながら、少年はこの街を後にすることにした。

もうこれ以上ここにいても仕方ない。少年はこの街を見限った。

 

無機質で汚れた街だった。

楽しそうに繁華街を歩くカップルや軽装備で街を歩く白人たちを羨望の眼差しで見ながら一人少年はこの街から消えていった。