2014年8月14日16歳の少年は深夜2時のバスの中で想いを馳せていた。
この世界はなぜ存在して、なぜ自分は生まれて、そして自分は今どこに向かっているんだろうかと。
運命というものがあるなら、自分がこの先どこに向かうかそれはもうすでに超自然的な誰かの手の内なんだろう。
でも、だとしたら尚更、俺はそこに逆らいたい。
人の生きる道を誰かが決めるというなら、それは他の誰でもない。自分自身が決めねばならないと。自分以外の者に自分の進む道を決められてはならないと。
昨日、母親から電話があった。内容は「今どこにいる?帰ってこい。」というものであった。帰るつもりなど毛頭ない。
今向かっている新たな地で、新しい生活の基盤を見つけられなければ、俺はその街とともに命を投げ出してもいい覚悟だ。
だから運命よ、いくらでもかかってこい。
お前が俺を逆らわせないなら、この命、投げ出してでも俺は自由を手に入れる。
バスは名古屋から東京に向かっていた。
名古屋には2週間いたが何も得られるものはなかった。
世の中を変えようと行動している少年を讃えてくれるような小説のような世界はそこにはなく、毎日数字と生産性のことしか考えない社会の、人間を道具としてしか見ない社会の縮図であった。名古屋はそんな場所だった。16歳の身元不明のよくわからない少年をただのドブ沿いのゴミのように見ていた大人たちの目を覚えている。
名古屋で少年が交わした会話は以下のようなものだ。
名古屋にいた時、ネットカフェに向かうエレベーターの中で「観光ですか?」と10代後半の大学生バイトのようなエプロン姿の従業員に声をかけられた。
どう答えたら良いかわからなかったのでとりあえず「まぁ、そんなところです」とだけ答えておいた。
それ以上会話が続くことはなかった。
日本人は割と人見知りの多い民族性だと思う。世話好きなご老人でもない限り、このご時世そうそう普通にしていて声をかけられることなんてない。
女性なら繁華街で所謂ナンパというものに遭遇することもあるかもしれない。
だが男が一人で外を歩いていて、悪趣味な職業のスカウトか飲食店の客引き以外に声をかけられるなんて滅多にない。
この人はどんな意図があって自分に声をかけてきたのか、少年は不思議に思った。
だがその答えを知ることは永遠にないのだろう。
なぜならきっと、もう2度とこの人に会うことはないのだろうから。
またある時、ビックカメラの休憩ソファで仮眠を取ろうとしていた時、隣に異臭のする初老の男が座ってきた。その男の風貌はヨレヨレのシャツに短パン、何が入っているかよくわからない小さな紙袋を片手に持ち、髪の毛は黒髪と白髪が同じくらい混ざっており、無造作に肩の辺りまで伸びていた。
なんとなく、この男が声をかけてくる気がした。メタ認知というやつだ。言葉ではなく、何かそういう雰囲気を感じ取る。
男は少年に案の定声をかけた。
「今日も人がいっぱいいるのう」
一見独り言のように聞こえなくもない。だが、声の大きさ、トーンが確実に少年に何か示唆したいかのような雰囲気を醸し出している。普段なら立ち去るところだが、もう行くところも引き返すところもない少年にとって、この男と話すことになんの身の危険も感じなかった。
「そうですね。人を観察するのが好きなんですか」
少年は返事をしていた。
すると初老の男は少し嬉しげに会話を始める。
「俺はゲームを作る仕事をしていてな。新しい情報を得るためにこういうところで人を見ながら流行りのものをリサーチしている。人を観察するのは面白い。例えば向こうに二人組の女の子がいるだろう。あの子たちは話しかけても大丈夫だ。お茶に誘えばついてきてくれるね」
「あぁ、そうですか」
気の無い相槌をうった。この人は何が言いたいのだろうか。それにどう考えてもこの男の言葉は信用できない。そんな感覚がした。この男の会話に混じった自分を少し後悔した。
「どんな女の子でも落とす方法を教えてあげようか。今なら千円で教えてやるぞ」
辟易とするこちらをよそ眼にまだ男は話を続けている。
この街は変なのかもしれない。そんなことを思いながら返事をした。
「いえ、そういうのには興味がないので大丈夫です。」
「そうかい。またなんかあったら声かけてくれよ。じゃあ俺はこれから風呂入ってねるとしよう」
そういいながら男は立ち去っていった。
立ち去りぎわ、先ほど指差していた女性二人組の前を男が通ると、露骨に嫌そうな顔をする女性たちの顔が見えた。おそらく男から漂う異臭のせいだろう。
どう考えても、あの男が女性に声をかけてうまく行くなんて風には到底思えなかった。
だが自分ももう3日ほど風呂に入っていない。
そういう光景を見て、少年は無性に風呂に入りたくなった。
だが手元のお金は限られている。もう人の目なんて気にしていられない。
少年にとって最も必要なことは、女の子をナンパする方法を知ることでもなければ、シャワーを浴びることでもなければ、この絶望的な今という状況から脱出するという手段を得ることのみだった。どうやってこの状態から生き残るか、それが最優先事項。
最後はハローワークでの話。
名古屋に来て5日ほど経った頃、少年は焦り始めていた。ネットや外の掲示で求人に片っ端から問い合わせをするが、身元のわからない未成年など雇えないとどこも断られ、いまだに仕事が決まらなかったからだ。もちろん住むところもない、
行く先はどこにもなかった。寮を貸してくれて、未成年でも匿って働かせてくれそうなところなんてアウトローな仕事しか思いつかない。
それでもいい気がした。それも死ぬことを思えばマシなのかもしれない。
だけどこんな状況でもそれはしたくなかった。自分のために、最初から分かって誰かを傷つけるなんてことをしたくなかった。
まずは正攻法で。そう思い少年は重い足取りで職安いわゆるハローワークに向かった。まだ朝の9時でもう開場前から多くの人が入り口の近くで並んでいた。
入り口近くでたむろっている人たちの風貌や雰囲気は、お世辞にもいいと言えるようなものではなかった。
明らかに肥え切って、お腹で自分の足が見えないような中年女性、何日も洗ってないようなシワと汚れだらけでキャップを被った初老の男性、目が泳いでどこを見ているかわからない男性。
だがそういう自分もはたから見れば十分にその人たちと同じような状況だ。
なんだかこの国の負の側面を見ている気がした。16歳の少年にとって日本という国の負の側面をまじまじと見せつけられ、そして自分もその輪の中に十分入りうるというこの状況。行き場がなく、ただ職安をうろうろし、昼間は公園で時間を潰す。
いったいなんのために生きているのだろう。そんなことすら考えてしまう。
自分は何をするためにここに来たんだろうと。
学校と家を往復するだけでは決して感じることのなかった感覚。
同情や憐れみなんかじゃない。むしろそういう感情は人を見下す感情に似ているのかもしれないと初めて思った。
いざ自分も、もうどうしようもない状況に陥ると、むしろなんとかその日を生き続けていられる路上の人々に、尊敬の念すら感じてしまう。
自分がいかに甘ったれた環境で生活させてもらえていたのか痛感した。
住むところがない、明日食べるものがない。こんな状況になりたくないから、親は子供に教育を受けさせ経歴に箔を付けさせようとする。そうやって最低限の人間的生活を送って欲しいからなのだと。
初めて親の気持ちも理解できた。
だからと言って
引き返す気もなかった。新しい視点は得られた。だからと言って自分が引いたら終わりだ。ここで引き返したら、もう永遠に自由は手に入らないと思った。
少年は前を向き、職安の門をぐぐった。10時になり人が一斉に入りだす。
建物の中の階段を突き進む。生まれて初めてくる場所。
パソコンを操作し、いくらか自分が働きたい候補先の求人を印刷し、受付に持っていく。つい最近までPCのプログラミングを勉強していた少年は、エンジニア系の求人を探して受付に行く。もちろん学歴欄は不問しか選べない。
いわゆる頭脳労働というやつはほとんどが大卒が条件でそれがなければ応募すらすることができない。
自分は応募もできない。
16歳にして初めて世間の厳しさを知ったような気がした。
僕のいた小さな世界のそれまでの大人は子供に勝手な振る舞いをすることはあれど、この世間のようにまだ出会っていない人間を切り捨てるようなことはしなかった。
また違う憤りを感じる。
学歴なんかでこの俺の何がわかるんだと。
だがそうも言ってられない。この状況に対して自分ができること。
それはどこか一つでもいいから面接までたどり着くこと。
番号札を取り、求人の紙を持って自分の名前が呼ばれるのを待つ。
不安でいっぱいだった。何かずっと自分では思っても見なかった現実の厳しさだけを叩きつけられているこの感覚。誰かにこの不安を話したかった。
だが僕の理解者はどこにもいない。少なくともこの折りたたみのガラケーの連絡先の中には。
そんなことを思っていると、自分の番号が呼ばれる。
受付に行く。僕の担当は中年の細身の女性だった。
初めてまともな人と会話している気がした。
孤独感を感じていた僕は、とりあえず手短に今の状況と仕事を探している経緯を伝えた。
すると彼女は言う。
「若いのになかなか壮絶な経験をしているね。君は孫正義にでもなるのかな」
なんてことを言われた。
なんだか初めて自分の行動を評価してもらえたような気がした。
自分が勝手に決めたことではあったけど、少し嬉しくも感じた。
そこから履歴書の書き方などをおそわり、2件応募した。色々と親身にサポートをしてくれた。面接にはスーツ必須と書いてあったが、そんなものは持ち合わせていなかった。面接はサンダルで行った。
面接会場の道中、信号で立ち止まらないといけない場所があった。だが幸いにもその時間帯は交通量が少なく、車は全く走っていなかった。
だから少年はその信号を渡った。信号の色は赤色だった。
渡っている途中で、信号を渡った先の目の前に警官がいるのに気付く。こんな近くで警官がいるのに気づかなかったとは、相当視野が狭くなっているようだ。
するとその警官は少年に指をさし、重々しい声で注意する。
「信号、無視しちゃダメだよ」
「すみません」
少年は弱々しく返事をした。
自分が未成年で家出をしていることが身元を調べられてわかったら、実家に送り返されるかもしれない、そんな不安がよぎり、なんとか穏便にことを済まさなければならなかった。怪しまれてはならない。
なんとかその警官のそばから離れたかった。
少年は感情を押し殺し、返事をすると警官の前から消えた。
だが確実にその時、憤りのような感情も渦巻いていた。
「お前たち警官は信号を守らない奴にはケチをつける。だがそれじゃあなんであんたたちがいて世の中の犯罪は無くならない?あんたたちのいないところで世界をめちゃくちゃにしてる奴らがいて、なんでそんなに目先の小さなことには過剰に反応できるんだ」
と。
もう少年の脳内は整理しきれない感情で満ち溢れていた。
面接会場のオフィスに行くと、受付の若い細身の女性に履歴書を渡して面接に来たことを伝える。女性はかなり痩せこけていて、服の隙間から下着が見えているのに気にもとめていないようだった。
なんとなく違和感を感じた。
自分の想像していたものと違う。
決して働くことを楽しいなんて思ってもない無機質な返答。
人間が冷たい、血の流れていないロボットのように見える。
どこに行っても行き交う人が僕の存在に気づかない。
素通りしていく。
世界でたった一人。
孤独が恐ろしく感じる。
このまま死んでしまいたいとも思った。
それでもこの孤独と戦い続けなければならない。
なんとか気を持ち直し、案内された部屋で面接官が来るのをまつ。
その間冷たいお茶が出されたが、何の味かはわからない。
それでも希望を持ち、うまくいくことを考え、面接官を待つ。
面接官が来る。少し髪の毛の薄い物腰柔らかな男性だった。
他愛のない話をする。
自分の年齢とエンジニアを志望する理由を答える。
面接は淡々と進む。
少し僕の年齢を聞いて驚いている感じだったが、徐々に面接官の態度が厳しくなってきたような気がする。
自分の感覚ではうまく行っているような気がした。
そして途中から口頭試問が始まる。
「クラスの概念について説明してください」
うまくは答えられなかった。以前確実にテキストで読んだが自分ではどうにもできなかった。
そして結果はお祈りの通知だった。
面接というシステムに違和感を感じる。
実際に働いても見てないのに自分の何がわかるというんだと。
そんなことを思いながら、少年はこの街を後にすることにした。
もうこれ以上ここにいても仕方ない。少年はこの街を見限った。
無機質で汚れた街だった。
楽しそうに繁華街を歩くカップルや軽装備で街を歩く白人たちを羨望の眼差しで見ながら一人少年はこの街から消えていった。